【連載小説】『シェムリアップ』~2日目(後編)~

 20世紀に入るころ、カンボジアはフランス領インドシナ編入されていた。1940年、フランスはナチスに侵攻されると、親独のヴィシー政権が樹立し、ドイツの同盟国であった日本の北部仏印進駐を認めた。すると、カンボジアが位置する南部仏印の領土をめぐり、タイとフランスの間で紛争が勃発した。1941年、日本の調停によって結ばれた東京条約において、バッタンバンとシェムリアップの両州がフランスからタイに割譲された。その後、日本が南部仏印進駐を始めると、カンボジアはフランスと日本の二重支配となった。しかし1944年、連合軍が挽回し、パリが解放されてヴィシー政権が崩壊すると、日本は仏印の植民地政府を攻撃し、この地域を完全な支配下におさめた。このとき、日本はベトナムラオスカンボジアを独立させる明号作戦を行い、カンボジアは一時的に独立を果たす。日本が降伏するとカンボジアはまたフランスの植民地に戻ったが、1953年にシハヌーク王のもとで再び独立を果たす。

 その後、シハヌークは王位を退いて元首となり、引き続き国民の人気を集めた。1960年、シハヌークは、ベトナム戦争北ベトナムを爆撃していたアメリカとの国交を断絶した。ベトナム戦争を背景に、国内の右派と左派の対立が強まっており、1967年にはバッタンバン州で、政府による余剰米買い付けに対する農民の反乱が起こった。

 1970年、ロン・ノルがクーデターを決行し、親米派クメール共和国を樹立した。ここからカンボジアは内戦状態に入ることとなる。ロン・ノルホーチミン・ルートを粉砕するためにアメリカ軍に自国への侵攻を促した。アメリカの爆撃により大量の国内難民が発生し、国民のロン・ノル政権への反発は高まった。政府に対抗して、ポル・ポトらの共産党勢力「クメール・ルージュ」は、武力抵抗を行った。アメリカ軍が撤退した後もクメール・ルージュは抵抗を続け、1975年にプノンペンを占領し、民主カンプチアを樹立した。

 ポル・ポトは原始共産主義者であり、国内の学校、病院、工場を閉鎖して貨幣を廃止し、国民をすべて農業に従事させた。しかし、生産された米は武器調達のために中国へ輸出され、飢餓を招いた。国民は疲弊し、多くの死者を出したが、ポル・ポトは自身の失敗を顧みなかった。むしろ、国内のスパイに対する警戒を強め、知識人たちを徹底的に殺害した。眼鏡をかけている者など、理不尽に殺害された者は大量にいたといわれている。各国の機関による報告では、虐殺による死者は少なくとも100万人以上である。以後、1979年にヘン・サムリンカンボジア人民共和国が成立してからも内戦は収まらず、1993年まで続くことになる。*1

 シャオムはカンボジアの歴史についてほとんど知らなかったが、虐殺の歴史を聞いて思いを馳せた。歴史認識と分析の中で、特定の国家や人物、また社会の構造に失敗の原因を求めるのは必要なことである。しかし、なぜ虐殺が起こったのか、人類がそれを考え続けない限り、我々はまた同じことを繰り返すだろう。

 三人は店を出て、マットという男性に会うために、トゥクトゥクを捕まえた。マットはアメリカ・カリフォルニア出身で、アメリカで数年働いた後シェムリアップにやってきて、小さなツーリズムの会社を営んでいた。彼はいわゆる社会起業家で、営業利益でスラム地域に学校を作り、運営していた。そして、安木さんの会社が彼と、ある関係を持っていた。

 安木さんの会社は、「日本の高校生に途上国での体験をさせる」という事業を行なっていた。具体的には、現地の社会起業家たちの協力を得て、高校生を彼らの会社に派遣し、会社の課題解決(コンサルティング)を任せるというプログラムである。マットはその事業の協力者である社会起業家の一人だった。ダダオはその日、マットに前回のプロジェクトのお礼を言うとともに、ツアーを組んでくれないか頼むつもりだった。初めてカンボジアに来たシャオムに、いろいろな場所を見せたかったのである。

 トゥクトゥクは細い川に沿って走り、マットがいるオフィスに向かった。オフィスの近所は木々も多くて自然が感じられる。近くでは屋台市のおばさんが声を枯らして客を呼んでいた。数十ある屋台の中には日本人のタコ焼き屋があるそうだが、今日はお休みだそうだ。

 外観の白い、一階の小さなオフィスに着くと、大柄の男が外まで出迎えてくれた。

「よく来たね。ダダオ、しばらくだったね」

 マットは物腰の柔らかい、気さくな男であった。シャオムのために、快くツアーを用意してくれることになった。

「ダダオ、研究はどう?」

 マットはダダオの研究にかなり興味を示していた。シャオムはマットが思慮深く、リベラルで教養ある起業家であることを悟った。

 マットの会社には数人のツアーガイドがおり、中にはマットのつくった学校の卒業生もいる。シェムリアップからカンボジア最大の湖・トンレサップの辺りまで下ったところに、水上生活者の住むエリアがある。学校はそこのエリアに位置していた。マットはトンレサップや学校のある地域の見学、それからアンコール遺跡群の観光という二つのツアーを用意してくれた。シャオムは子供のころに初めてキャンプに行ったときくらい、わくわくしていた。ローカルな人と一緒に、ローカルな場所を見られるというのは旅の一番のおもしろさである。トンレサップは翌日、アンコール遺跡は3日後と決まった。トンレサップのツアーは、もともと翌日に行われる予定であり、すでにアメリカ人のグループなどが予約しているとのことであった。シャオムらはそこに飛び入りで参加させてもらえることになった。シャオムは、アメリカの観光客と共に行くのも、この旅の絶妙なスパイスになるだろうと思った。

 3人は、オフィスからの帰りにクメール料理屋で夕食をとった。シェムリアップのレストランは玄関の壁がないところが多く、外を眺めながら食事を楽しむことができるし、風が気持ちいい。正方形のテーブルに通されると、店員がいきなり席に座ってきて、一緒に食べようとするというボケを披露した。

「ああ、オレは店員だったね、ごめん」

 日本人から見ても高水準のお笑いである。シャオムはまだ2日目だが、カンボジア人の気さくさに心惹かれていた。店で食べるクメール料理はやや味が濃いが、基本的に日本人の口に合っている。シャオムは大いに満足していた。

 宿に帰ると22時ごろにも関わらず、若いオーナーが陽気に帰りを迎えてくれた。彼らも例外なくフレンドリーである。

 シャオムは寝る前に少し考え事をした。明日トンレサップを訪れるのが楽しみであったが、そればかりではない。シャオムにとって、昨日、安木さんや広池さんに言われたことが耳を離れなかった。「なぜ教師になるのか」という問題について、シャオムは楽しければ良い、くらいにしか考えていなかった。楽しいことの方が、自分の力が発揮できると思っていたからだ。しかし、真剣に社会を変えようと仕事をする人たちに出会い、自分が教育を受けた意味を改めて考えるに至ったのである。

 ダダオは夜遅く、部屋を出て安木さんと電話で打ち合わせをしながら近所を散歩していた。どうも散歩が好きらしい。しかし、日をまたぐ前に帰ってきたかと思えばすぐに眠りについた。ダダオもケンも寝静まったあと、シャオムはiPhoneに充電器を刺して、眠りについた。

 

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*1:カンボジアの歴史については、「Wikipedia」を参考にしました。ポル・ポトが虐殺を行ったかどうかについては諸説あるそうです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

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