【連載小説】『シェムリアップ』~3日目(前編)~

3日目

 果たして、ツアーは8人程度の参加であった。白いバンがトラベラーズ・ホームに到着すると、すでにほとんどの参加者が車内にいた。バンはもう一組のトルコ人の夫婦を拾い、郊外に向かって走り出した。ツアーはサムという若い男がガイドを務めていた。サムはトンレサップ地域の出身で、礼儀正しく寡黙そうな雰囲気である。しかし、話し出すとジョークを交えて各国のお客を楽しませる名ガイドであった。車内は自己紹介タイムに移った。

「大学院で都市開発を勉強しています!」

 ダダオが流暢な英語で自己紹介すると、車内はどっと沸いた。ニューヨークから来た女性たちにとっては、親近感があったようである。

「大阪から来ました。シェムリアップはとてもいいところですね」

プノンペンで留学しています」

 シャオムとケンがそれぞれ自己紹介した。シャオムはもう一年くらい英語を使っていなかったので、カンボジアに来る前は、現地の人たちとコミュニケーションがとれるか多少懸念していた。が、意外にも心配は無用だった。一年間カナダに留学し、大学の科目をすべて英語で修了したのである。日常会話に困ることはない。車内は和やかな空気につつまれ、一行は勢いよくシェムリアップを飛び出した。バンはシェムリアッププノンペンをつなぐ国道6号線を、東に向かって走った。主な国道は、走りやすいように十分整備されているようである。先進国と途上国で何が違うと聞かれれば、インフラが違う。日本の学校では途上国ではまだ道路や水道の整備が不十分だから、人々は困っているのだ、と教わる。シャオムもそう学んで育った一人である。この評価はいろいろな国において、ある程度事実であると思うが、大きな差はそこではない。カンボジアでも都市部では十分インフラは整備されているし、極端に危険で不衛生なエリアはない。しかし、そのインフラが整備されるまでの過程が我々の国とは違う。途上国には先進国や国際機関からの援助が行われているが、その援助をめぐってさまざまな国や企業の利権がからんでいる。特に東南アジアは20世紀まで、多くの国の支配と戦争によって、政治経済が不安定だったのである。シャオムはそんな歴史の名残が、ここシェムリアップにもあるのだろうと思っていた。なぜここにこんな立派な建物があるのか。あの橋はだれが渡るために作ったのか。そういう理解不明の事業への投資が行われているのも、途上国なのかもしれない。

 30分ほど経過して、国道沿いのある民家のそばに停車した。

「スティッキーライスに到着!」

 サムが威勢よく叫んだ。そんなに声を張り上げなくても、この人数のバンなら十分聞こえる。

 スティッキーライスというのはもち米のようなもので、竹筒の中に詰めて焼かれている。民家の前で若いお母さんが20本くらいの竹筒を焼いていた。そばでは5歳くらいの娘が焼けるのを待ちながら、シャオムら観光客の方をじっと見ていた。すでにシェムリアップ市街地よりは明らかに貧しい地域に差し掛かっていた。もしかしたらこの家族もスティッキーライスを生業に暮らしているのかもしれない。

 スティッキーライスが焼けるとサムが慣れた手つきで竹を裂き始めた。シャオムはそんなものいきなり触ってやけどしないものかと思った。味見すると、意外にもおはぎのように甘かった。シャオムは、米がここまで甘いものかと感心した。

「竹が甘みを閉じ込めるんだ!」

 サムが熱心に解説してくれる。カンボジア人の英語はシャオムにとってはかなり聞き取りやすい。

 一行は母娘にお礼を言い、再びバンに乗り込んだ。昼下がりの国道は、車はまばらである。しばらくまっすぐに進むと、バンは右折した。相変わらず小さな民家の前に、自転車やオートバイが並ぶ風景が続いた。徐々にアスファルトの舗装が施されていない部分が多くなり、揺れが大きくなっていった。道路を横切る子供も多く、運転手は常に用心して行かなければならない。シャオムらは車内の最後列に陣取り、移り変わる景色を眺めながら談笑していた。

「あれは田んぼかな」

「田んぼですね。ここでは12月と1月が収穫期です」

 しばらくカンボジアにいるケンが、解説を挟んでくれる。シャオムはこの田んぼでとれる米が、先ほどのスティッキーライスなのだろうか、と思った。カナダでホームステイしていたとき、ホストマザーが日本人のシャオムに気を利かして、ご飯をよく作ってくれた。しかしそれは、コシヒカリのような慣れ親しんだものではなく、東南アジアでよく見られる細長い米であった。こちらはスティッキーライスとは逆に、粘り気が少ないのである。シャオムは、カンボジアはこのどちらも作れるのだろうか、などと考えた。広大な土地には、何匹ものヤギがうろうろ散歩していた。

 出発から約1時間が経ったころ、大きな川が現れた。この川に沿って走っていけば、トンレサップに着く、とサムは言う。今まで通過してきたエリアより、生活水準は見るからに下がっている。民家はすべて、日本史の教科書で見る高床式倉庫のようになっていた。それも、地上から少なくとも2メートル高い位置に床があり、住民たちは、玄関から階段を下りて道路まで出てくる。サムによると、今は乾期だから問題ないが、雨期には水位が上がるそうだ。家々の下にはプラスチックなどのゴミが大量に落ちていた。シャオムはこんなところに観光ツアーの車が入っていっていいのか、と思った。そして何より、ここのエリアの衛生環境が気になった。外から見る限り、上下水道や、水洗トイレが備え付けられているとは思えなかった。

「たしかに、ここの一番の問題は衛生面だね」

 以前にこの水上生活者のエリアを訪れたことがあるダダオも、衛生環境をもっとも心配していた。

 バンがどんどん進むと、車内にもやや緊張感が出てきた。シャオムは道の少し先に、この川と民家の風景からして明らかに異様な、金色の、とんでもなく背の高い物体を見つけた。

「なんですかあの、とんでもなくデカいのは」

 近づいてみると、それは大仏であった。シャオムは奈良の大仏を見たことがあるが、大きさは覚えていない。どちらが大きいかはわからないが、今目の前にしている大仏は、奈良の大仏に比べて圧倒的な金色である。

「これはね、たぶん学校だよ」

 どうやらこの大仏は、学校の敷地内に、何らかの意味合いで建立されたものらしい、とダダオが教えてくれた。

「子供たちの守り神的なものなんですかね」

「いや大仏やのに守り神て」

 バンはこの大仏のふもとに駐車した。気が付くとそこは、川からトンレサップ湖に注ぐ河口のすぐ近くであった。これ以上は車が入っていけないらしい。ここから歩いて水上生活者の住むエリアに行き、その後ボートで湖に乗り出すというのがサムのプランであった。水辺であるせいか、市街地よりは暑さがましであった。

「こんなところ、普通に生きてたら来ませんよ」

 シャオムにとってそれは、初めて見る途上国の姿であった。今まで見ていたシェムリアップの街などは、ほんの一部の発展した場所である。川沿いには例の高床の家が並び、地上にはゴミが散乱している。若者たちはモーターボートに乗り、湖の方に向かってサーファーのように進んでいる。ボートは日本の暴走族よりも大きな音を立てて走るのである。まるで、村中に「今から漁にいくぞ」と発表するかのようである。アメリカやトルコからきた皆も、村の光景に目を奪われていた。

 一行が少し歩くと、ボートの騒音とは違う、何やらエスニックな笛の音が聞こえてきた。

「なんですか、この曲は」

 

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