【連載小説】『シェムリアップ』~3日目(後編)~

 シャオムがつぶやくと、ダダオが答えた。

「これはね、おれの予想だけど、葬式だよ」

 音が鳴る方に行くと、軽トラックのような車の近くに30人余りの村人が集まっていた。中には子供がたくさんいる。不思議そうにキョロキョロしているツアー客に、サムは言った。

「実は、これは、葬式だ!」

 ダダオはさすがであった。4、5人の少年たちがシャオムらに何やら話しかけてきた。シャオム、ケン、ダダオは、いずれも子供が好きである。ダダオは習い始めのクメール語で彼らの相手をした。

「ムオイ、ピ、バイ、ブオン、プラム・・・」

「ムオイピーブワイ!」

 どうやら数字を言い合っているらしかった。ボス格の太っちょが、年少の仲間たちに何か耳打ちしていた。村は観光地化されてはいないものの、たまには旅行客が来るのだろう。太っちょは村の外の情報をよく知っているようで、いかにもずる賢そうな顔をしている。ツアー客の誰かが写真を撮ろうとすると、サムが注意した。

「子供たちの写真は、撮らないでくれ」

 シャオムは、この子供たちは観光客に対して、どのような感情を持っているのだろうか、と思った。シャオムら観光客は、生活環境の整った場所で育ち、村の生活を見ようと突然やってくるのである。村人たちを見る限り、シャオムらを歓迎するような様子もなければ、迷惑そうな態度を示しているわけでもない。しかし、来訪者としては、勝手に地元の生活エリアに入っていっている以上、住民が来るなと言えば出ていかなければならないし、少なくとも彼らの生活を侵してはいけないのは当然だろう。

 シャオムら一行は、大勢の子供たちにジロジロ見られながら、葬式場を後にした。あたりはボートのエンジン音、笛の音、それに子供たちの声で喧噪に包まれていた。一行はサムに連れられて、マットの学校に到着した。学校は例の高床式の家を使っていて、階段を上っていくようになっていた。よく見ると階段が縦に二分されている。

「右側が上るための階段、左側が子供たちが滑るための坂になっているよ」

 一行は右側を上り、教室に入った。今日は休日なので、子供たちは来ていない。学校といっても元は人の家である。10畳くらいのものだ。シャオムらは普通に歩くと天井に頭をぶつけるので、かがみながら教室の中を見物した。木造の家の中に、立派なホワイトボードが立っている光景は少し異様である。壁にはクメール語や英語のアルファベット表が掲示されている。サムによると、読み書き計算のほか、身を立てるための裁縫を教えているとのことである。皆は各々席に着き、サムを教師に授業が始まった。席といっても一人ずつに机とイスが用意されているわけではなく、広いスペースに自由に座り、段差を机代わりに利用する。

 サムは学校の一日の流れ、マットの事業のこと、この地域の問題など、詳しく講義してくれた。ボートが何艘も漁に出かけていくので、騒音で半分も聞こえなかったが。

 シャオムは、この村の最大の課題は衛生環境であると思った。村人たちが、衣食住にどの程度満足しているのかはわからない。しかし、少なくともシャオムの目に映った彼らは、陽気で、活気に満ち、仲良く、そして愉快であった。辺りはそれほど治安が悪いとも見えない。もし、今日明日を暮らすことに問題がないのであれば、彼らを脅かすのは、不衛生からくる病気や、周辺の環境汚染だろう。

 途上国には先進国から援助が施されている。カンボジアはアンコーワットを中心に、観光業でも大いに儲かっている。でも、このような貧しい地域にお金が回らないのはなぜだろうか。この問題を知っている人にとって、お金が貧困を解決できないことは明らかである。

 一行は、滑り台ではない階段の方を下りて、学校を後にした。あいかわらず笛とボートの音が響く、もと来た道を歩いて戻った。

 バンが停まっている空き地に戻ると、船頭が、船着き場にボートを停めて、待っていてくれた。これからシャオムらはボートに乗ってトンレサップ湖に繰り出し、夕日を見ようというのである。

「夕日、楽しみですねえ」

 シャオムがそう言ったが、ボートの音にかき消されて、誰にも聞こえていないようである。皆が乗る船は村人たちが乗っている家族用ではなく、20人程度が乗れる中型ボートである。エンジン音も1.5倍くらい鳴り響いていた。よく日本の観光地で使用される客船からはほど遠く、船内でしゃべる声はおたがいにまったく聞こえない。それでも視界には、湖まで続く川が遠く広がっていた。

「あれ、今から漁にいく船もあるんですね」

 シャオムは誰にも聞こえなくても、自らに確認するようによくしゃべっていた。時刻は17時ごろであったが、湖に向かってシャオムらを追い抜かしていく船もあれば、帰ってきてすれ違う船もあった。ときどき船上の村人と目が合うと、観光客とわかって手を振ってくれた。夕日に照らされて、川も、人々の顔も、キラキラしていた。

 30分くらいかかって、ついにボートは湖に出た。ちょうど、シャオムらが向かう方角に、夕日が沈むところであった。何の障害物もなく、本物の水平線に沈んでいくトンレサップの太陽は真っ赤で、静かで、しかもまぶしかった。

 シャオム、ダダオ、ケンの三人はボートの甲板に出て腰を下ろしていた。静寂であった。ただ湖の青と夕日の赤を眺め、物思いにふけった。

「この景色をあいつらにも見せてやりたいよ」

 ダダオがそう言った。ダダオには大学時代、一緒に住んでいたルームメイトたちがいる。彼らは卒業しても、ダダオがアメリカに行っている間も、ルームシェアを続けているのである。ダダオには、将来彼らと共に何かを成し遂げたいという一種の野望があった。シャオムは大学時代、たびたび彼らの家を訪れていて、ダダオと彼らの関係をよく知っていた。シャオムにとって彼らは一年先輩であったが、皆、単なる友達として受け入れてくれた。シャオムはそれが嬉しかったのである。

 シャオムは船の上で、いろいろなことを思い浮かべた。旅で出会った人、日本にいる家族、大学の友達のこと・・・。

 カンボジアで見た途上国のことも頭に浮かんだ。一般では、途上国が先進国のように経済が豊かになり、民主的になり、情報が普及し、社会福祉が行き渡ることを発展と呼ぶかもしれない。ただし、発展が幸福をもたらすかということについては、別途考えなければならない。

 そしてまた、シャオムは自分の将来のことを考えた。再び、安木さんたちとの会話が思い出されていた。安木さんがシャオムに問うたこと――それは、「一体君は何のために生きるつもりか」ということだろう。シャオムはそう思っていた。

 暗闇となったトンレサップのところどころで、家の明かりが薄く光っていた。

 

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