【英語教育】日本の英語教育では修辞学を教えた方がいい

どうもシャオムです。

黒人差別への抗議デモが広がってからしばらく経ちます。SNSで関連投稿を目にすることも多いのではないでしょうか。

海外に住んでいる友人からよく聞く話があるのですが、SNSで何も発信していないと、「黙ってないで何か発信しなよ」「何も言わないってことは、レイシストなの?」と言われるというのです。とにかくポジションをとることを強いられるということですね。

さかのぼること4年。僕がバンクーバーに留学していたころ、直面していた悩みがありました。それは、英語はわかるけど意見を言えない、何と言ったらいいかわからない、という悩みです。今思うと、多くの日本人がこの問題を経験したことがあるのではないでしょうか。外国の学生と一緒に授業を受けると、クラスには日本人の方が多いのに、発言するのはたいてい外国の学生ということはよくあります。日本人としては、用意してしゃべることはできても、いきなり発言を振られてしゃべるのはなかなか難しいものです。

 

なぜ日本人が発言が苦手なのかを考えると、これは英語力が足りないからではありません。議論することに慣れていないからです。議論するのに必要なのは、意見を持つこと、発言を組み立てる力、聞き手をひきつける話術、説得力、頭の回転の速さなどです。これらを持たないと、外国人と対等に議論することはできません。黒人問題について問われても、答えようがないですね。

では、日本人が議論に弱いのはなぜでしょうか。

西洋には伝統的に、話で人を説得する方法を研究する学問があります。これを修辞学といい、その発祥は古代ギリシャです。民主政が発展したアテネでは、相手を説得して議論に勝つことが市民にとっての関心事でした。この相手を説得するための修辞学を教えていたのが、ソフィストと呼ばれる人々です。修辞学は重要な学問の一つとして、中世にいたるまで盛んに教えられたのでした。哲学や科学が発展すると、修辞学は徐々に学問というよりも話の技術としてとらえられるようになりました。今では修辞学というと、文学の技法という意味合いが強いかもしれません。それでも、西洋の教育では、この「話の技術」が当たり前のものとして教えられてきたのではないかと思います。

一方、日本はどうかというと、昔から自分の主張ができる能力よりも、先生の言うことを聞ける能力・理解できる能力が重視されてきたのではないでしょうか。日本の社会で有用な人材になるためには、組織に忠実に尽くせることが重要であり、またそれが美とされてきました。そんな社会の中で、修辞学的な力は必要ではなかったのでしょう。

明治以降、西洋式の教育を取り入れた後も、修辞学が教えられることはなかったでしょう。それは近代化してもなお、日本社会が話のテクニック的なものを求めなかったからだと思います。日本人が外国人と議論するとき、この修辞学的な素養の欠落が大きなハンデになってしまいます。

 

いま、英語教育の大きな目的は、やはりコミュニケーション能力の育成にあります。この目的に従って、学校では文法やリスニング、スピーキングが教えられています。しかし、日本人が英語スピーカーとコミュニケーションをとるときに大きな壁となるのが、「意見を言える能力」「うまく伝える能力」なのです。ディベートなどの活動も、英語を話せるようになることを目標に取り入れられることが多いですが、もっと「議論をする力」に焦点を当てた教育が行われるべきです。この視点で英語教育を見ることが、何かと問題視されやすい日本人の英語力という問題を考えるヒントになるのではないでしょうか。

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