丸山眞男『日本の思想』を読んで

どうもシャオムです。

高校のときの現代文の教科書に、丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』という文章が載っていました。『日本の思想』という本に収録されている内容です。最近、たまたま久しぶりに読む機会があったので、改めて読んでみて考えたことを書いておこうと思います。

まず丸山眞男は「時効」の例をあげます。お金を貸したがずっと返してもらえず、結局貸した側が損をして終わるという話です。これは貸した側が「債権者」という立場に安住して、「金を返せ、返さなければ訴える」と言って権利を行使しないから損をした、と筆者は言います。つまり、権利は使ってこそ権利であり、権利を持っていること自体が価値ではないということです。

続けて筆者は、民主主義に話を移します。民主主義では国民に主権がある。しかし国民がその権利を使用しなければ、それは権利がないのと同じです。筆者は日本人にたいして、債権者「である」こと、主権者「である」ことから、権利を行使「する」ことへの移行を説いています。先日のステレオタイプの話とも重なりますが、「○○である」という「状態」よりも「○○する」という「行為」を重視する方へ価値を移すということです。

私たちに身近なことで言うとどうでしょうか(主権者としての権利がそもそも身近であるべきですが)。たとえば、仕事という点でもそうです。僕らよりも下の世代の多くは、今はまだない仕事をして生きていくなんていうことが言われます。消防士「である」や○○会社の社員「である」ということよりも、「服を売る」や「脚本を書く」のような「する」ことの方が重要な意味を持つようになっています。伝統的な会社という組織の形はだんだん解体されていくでしょうし、個人として、またチームとして、「何をしているか」が問われるようになると思います。

私たちにとって、「○○である」ことはイメージしやすく、「○○する」ことはイメージしづらいです。「である」というのはいわば名前のようなもので、教師は実際にはいろいろな仕事をしますが「教師」という名前でひとくくりにされています。教師であるといわれると想像しやすいですが、勉強を教えたり、生徒を叱ったり、部活を教えたり、・・・と言われるとより頭を働かせて聞かなければなりません。それくらい、「行為」は私たちにとって難しいことなのです。参政権を持っていると言うと、なんとなく嬉しかったり安心したりしますが、権利を行使しなさいと言われると途端に難しくなります。このように考えると「する」ためには、かなり思考が必要であることがわかります。

丸山眞男が言っていた「する」ことへの転換は、確かに重要なテーマです。ただ、どうやって「する」様式に変わっていくかと考えると、それは簡単なことではありません。まずはみんなが「する」ことの価値を認識し、積極的に「である」ことを解体していかなければならないのだと思います。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

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