Dr.ハインリッヒ『砂漠のネタ』考察【前編】

1.はじめに

どうもシャオムです。

M-1グランプリの予選が行われていますが、大阪・京都の2回戦の動画がYouTubeチャンネルやGYAOに上がっています。

2回戦を突破した組の中に、Dr.ハインリッヒ(ドクターハインリッヒ)がいます。結成15年の「ラストイヤー」のコンビであり、過去は準々決勝まで進んでいるコンビです。お二人が今年4月のインタビュー*1で「近年、受けやすくなってきた」と言う通り、たしかに一般的にも多様なお笑いに対する理解が広がってきていて、彼らに追い風が吹いていることは間違いありません。

Dr.ハインリッヒの漫才は、幸(みゆき)さん(左)が彩(あや)さん(右)に物語を話すというパターンが主流です。その物語が、大いに文学的・哲学的であり、独特の美しさを持っているので、今回記事で取り上げることになりました。まず、Dr.ハインリッヒのお笑いのどこに美しさがあるのかを考えます。そして、今年の2回戦の『砂漠のネタ』を通して、彼女らが何を伝えたいのかを考察していきたいと思います。お笑いの考察ではなくて、文学としての解釈の考察です。動画のリンクも貼っておきますが、「文学」として読むためにも、文字に起こしてみることにします。

2.『砂漠のネタ』全文

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Dr.ハインリッヒです。よろしくお願いします。あのーこないだわたくしね、砂漠をね、歩いてたんですよ。

彩 自分こないだ砂漠を歩いてたんかいな!ええやん。

幸 ええやろ。砂いっぱいあるなーと思ってこう歩いてたらね、なんかこの辺に穴あいてて、この辺にサーって砂が集まっていくねん。アリジゴクみたいなんが発生してて。

彩 ほう。

幸 歩いてたら自然と足を取られて、ハアーーーーー!!!って、落ちたんよ。

彩 大丈夫やったか!?

幸 大丈夫やったんやで。まあ落ちたとて、ここも砂漠やってん。

彩 砂漠・・・。

幸 ああ、砂いっぱいあるなーと思って歩いててん。

彩 ほう。

幸 ほんならこっち側にね、世界一長い商店街っていうのが発生してたんや。

彩 一体、どこの砂漠歩いてたんや!?

幸 地図に載ってないアジア。

彩 はあ?

幸 うん。ほんでね、世界一長いんやーと思ってね、砂いっぱいあるなー、長いなーと思って歩いてたんやね。ほんで中入っていったらね、毛糸屋さんがあったんや。

彩 ほう。

幸 世界中の毛糸が置いてあって、毛糸いっぱいあるわーと思って見てて。

彩 ほう。

幸 ほんなら、これくらい(四角)の1枚があって、まあタペストリーやな。七色のさまざまな毛糸が編まれてる1枚の布があったんや。

彩 ほう。

幸 これ見てたら、ハアッ!ハアーッ!ってこう、伝わってきたんよ。

彩 なにがや!

幸 1本ずつが話しかけてくんねん。

彩 なんて?

幸 「私たちは、ラーメンです」

彩 ラーメンなん!?

幸 うん。

彩 毛糸が?

幸 これラーメンなんやあって思ってたら、なんか向こうから「ハアーー!!」って聞こえてん。

彩 ほう。

幸 なんや、どうしたんや!ってぱって見たら、わたくしが、穴の中に落ちててん。

彩 え!?

幸 あ、わたくしや!と思ってまあ、歩いてたんやね。

彩 世界!!

幸 ほんでこう歩いてたら、なんか砂漠から明らかに出ててん。

彩 出てたん?

幸 なんか出てる!と思って、ガッて引っこ抜いたんよ。

彩 ほう。

幸 やっぱり、バイオリンやってん。

彩 やっぱり!?

幸 うん。

彩 え、なに?気配出てた?

幸 やっぱりバイオリンやわーと思って、バイオリンやー!!ってこう、投げたんよ。

彩 なんでやねん!!楽器を投げるなー!!

幸 うん。ほんならそっち側に、海が発生しててん。

彩 海?

幸 うん?ほんならこのバイオリンが、海にぽちょーんって落ちてん。

彩 ほう。

幸 ほんなら海の中から誰か出てきはってん。

彩 誰がや?

幸 二足歩行の人。

彩 人はだいたい二足歩行やん。

幸 ほんでまあ手にバイオリンを持ってはったわ。

彩 ほう。

幸 ほんで海から出てきて、砂漠ににゅっと出てきて、そのまま透明な空に続く階段を登っていかはったわ。

彩 いや、世界!!

幸 ほんて夜空で、星座にならはったわ。

彩 何座やねん!!

幸 ひねり座や。

彩 ひねり座!?

幸 ここ(腰)がひねってあるから、ひねり座やわ。

彩 ひねり座・・・。

幸 ほんでこのひねり座なんやけど、この掲げてるバイオリンが、白夜っていう夜にな、バイオリンの弦がパラパラパラーって落ちてくんねん。

彩 ほう。

幸 ほんでそれをみんながお椀を持って集まって、食べるねん。

彩 食べんの!?

幸 うん。これ、ラーメンやねん。

彩 ラーメンなん?え、さっきのあの毛糸のやつ?

幸 あれとは、別件やねん。

彩 別件なん!?なんや、さっきのやつやったらよかったのに・・・。

幸 この世にはね!伏線を回収しない物語があるのです!

彩 え!?

幸 伏線は回収しないし、悲しみもないし、喜びもない。病もないし、老いもない。何もないんですよ。

彩 なんもないんかいな!般若心経やがな!般若心経やからもうええわ。どうもありがとうございました。

 3.なぜ「美的」か

物語の全貌がわかったところで、Dr.ハインリッヒの漫才がなぜ「美的」かを考えてみましょう。Dr.ハインリッヒのほかにも、物語を話すという形式の漫才をするコンビはいます。たとえば、千鳥の『どろぼうだどろお』のネタはそうです。大悟さんが友だちにお金を盗まれるなどのエピソードを、話し聞かせるのがメインになっています。エピソード自体に落ちがある、またはエピソードのおかしなところに突っ込んでいくという漫才はほかにもありますが、Dr.ハインリッヒの物語はそれらとは一線を画しています。

『砂漠のネタ』には、まず砂漠があって、海がある。「透明な空に続く階段」があって、空には星座がある。足元からはバイオリン、手元には七色の毛糸でできたタペストリーです。シンプルにその世界が美しい。聞いている人の頭の中で、鮮やかな映像が浮かび上がります。そして、布がしゃべったり、毛糸がラーメンであったり、バイオリンの弦がラーメンであったりするという、ファンタジーがあります。

こういう人間の内面にある「世界」や「美」を、作家は文学で表現し、画家は絵画で表現し、音楽家は音楽で表現する。Dr.ハインリッヒは、「世界」や「美」を、漫才という媒体で表現しているのです。そこに、ほかのお笑いにはない独自の芸術性、すなわち、ここでいう「美しさ」を感じることができます。彩さんは前出のインタビューで、「品とか美しさって、めちゃくちゃおもしろい」とおっしゃっています。Dr.ハインリッヒがお笑いに「美しさ」を持ち込んだことによって、「美しさを笑う」という人間にとって新たな段階に我々をいざなってくれているような気がするのです。その先にあるのは、人の失敗を笑って生まれる恥や反感や憎悪などではありません。人間の内面にそなわる力の凄さを感じ取り、人間の心を肯定する態度です。僕の理解が正しければ、Dr.ハインリッヒの二人は、人間の内面にある美しいものを感じる力を指して「波動」と呼んでいます。彼らのお笑いは、人々の「波動」を上げ、もっと美を感じ、穏やかに、平和をつくるためのものなのではないかと思っています。

 4.般若心経か否か

 ここからは、物語の「美しさ」から「哲学」に話を移しましょう。つまり、『砂漠のネタ』にはどんな意味があり、私たちに何を教えてくれるのかいうことです。先ほどから述べているように、『砂漠のネタ』は一つのファンタジーです。我々が実際に砂漠の中に落ちることもなければ、空から降ってきたラーメンを食べることもない。それでもこの物語に何か意味があるとするならば、「ラーメン」や「バイオリン」は人間にとっての何かを象徴しているのではないでしょうか。「トトロ」が人間にとっての何かを象徴しているのではないか、と私たちが考えるように・・・。

 

まず、物語を考察するにあたって、オチの部分に注目して考えてみましょう。『砂漠のネタ』は、彩さんが「般若心経やがな!般若心経やからもうええわ」と言って終わっています。これは一見意味がわからないのですが、よく考えてみるとわずかの無駄もないスッキリしたオチになっていることがわかります。私たちがこれから考察しようとしているように、幸さんの話す物語には謎が多く、一体何を伝えたいのかわかりにくいものでした。彩さんも物語が進むと同時に、一体何の話なんだろうとワクワクしていたのではないでしょうか。そこで、最後のところで幸さんが「世の中には伏線を回収しない物語がある」、「喜びも悲しみもない」、「何もない」と結論づけたことによって、彩さんは「ああ、何だこの話は結局、般若心経のような話なんだ」と納得したのです。物語に登場する2つのラーメンに何か関係があると期待したのに、結局「別件」だったことから、私たちが世の中にあると思っているあらゆる事象は本当は存在せず、すべて「無」であり「空」である。砂漠の物語は結局、「空」の概念を説く般若心経と同じことを言っていたのだとわかるのです。最後の彩さんの「般若心経やがな!般若心経やからもうええわ」という言葉からは、「この物語の趣旨は般若心経だったのですね。納得できたので漫才を終わりましょう」という思いが読み取れるのです。

こう考えると、『砂漠のネタ』の物語の意味は、2通りに解釈できます。第一に、幸さんの言う通り物語の真意は「何もない」ということであり、般若心経に流れる「空」というテーマと同一のものであるという見方。もしこの見方が正しいとするならば、幸さんがいろいろ話したファンタジーも、般若心経の「空」の概念を説明するための方便でしかないということになります。つまり、私たちがどれだけ頑張って物語の内部を考察したとしても、結局は何もないわけですから、これ以上深掘りする意義は薄くなります。

しかし、もしも私たちが第二の解釈をするならば、物語の細部を綿密に考察する必要が生じてきます。第二の解釈とは、幸さんはたしかに物語のテーマを「何もない」と言っているが、それはあくまで幸さんが自分の体験に対して下した評価であって、客観的に見れば、幸さんの体験には何らかの意義があり、その物語には何か哲学的な示唆があると考える解釈です。後編では、この第二の解釈に基づいて、砂漠のファンタジーの意味を考えていきたいと思います。

 

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