Dr.ハインリッヒ『砂漠のネタ』考察【後編】

どうもシャオムです。

Dr.ハインリッヒ『砂漠のネタ』考察」の後編です。

前編では『砂漠のネタ』の全文と、Dr.ハインリッヒの芸風を中心に書きました。ぜひそちらを読んでから、この後編をご覧ください。今回は、さらに『砂漠のネタ』の内容を考察していきたいと思います。

 

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5.『砂漠のネタ』のあらすじ

まずは『砂漠のネタ』のあらすじを確認しておきましょう。

幸(みゆき)さんが砂漠を歩いていたら、アリジゴクのようなものに足を取られて落ちてしまいます。ど頭からファンタジックです。そもそも、砂漠を歩いているという時点でおそらくそこは日本ではなく、半分ファンタジックなのですが、ここでは彩(あや)さんは「自分こないだ砂漠を歩いてたんかいな!ええやん」とだけ言って話を進めます。このように、基本的に漫才の中で、世界の広がりを止めるような発言はありません。

さて、幸さんが落ちたところはまた砂漠であり、「世界一長い商店街」というのが登場します。そこには毛糸屋があり、1枚のタペストリーが「私たちはラーメンです」と言いました。幸さんは「ラーメンなんやあ」と思ってまた歩き始めます。

すると、地面から何か突き出ているものがあります。引き抜いてみると、それは「やっぱりバイオリン」だったそうです。彩さんはそれに対して「やっぱり?何?気配出てた?」と言います。

ここで少し物語を離れて、この「気配出てた?」について補足しておきましょう。この一言は、実に優しい印象を私たちに与えてくれるものであり、Dr.ハインリッヒならではのツッコミといえます。それまでの話にバイオリンなんて一度も出てきていないのですから、唐突に「やっぱりバイオリン」と言われたら、客は「いや聞いてないわ!」とか「やっぱりて何やねん、知らんわ!」という突っ込みが来るものだと無意識に思っています。その方がスカッとするから、普通のお笑いならそう言うのですね。しかし、よく考えてみるとこういうツッコミはすごく自分本位です。言い換えれば、「幸さんはおかしなことを言っている。急にそんなこと言われてもみんなわかるわけがない」という気持ち、つまり「ツッコミはいつも客目線」という考え方が前提になっているのです。しかし、「気配出てた?」という一言には、幸さんを否定する調子が含まれていません。むしろ、「幸さんの中ではバイオリンが出る気配があったのかな」というような、共感しようとする姿勢がうかがえるのです。こうして彩さんが完全に客の目線に回るのではなく、あくまで幸さんを理解しようとする「友人」の目線に徹することによって、幸さんの世界を邪魔せずに話が進むのです。これは、ある意味では二人の漫才がミステリーに包まれ、私たちにとって絶妙によくわからないままになる原因となっています。

漫才の話が長くなりましたが、あらすじに戻りましょう。幸さんは引っこ抜いたバイオリンを投げ、海に入れてしまいます。すると、海の中から「二足歩行の人」がそのバイオリンをもって現れ、「透明な空に続く階段」を上り、「ひねり座」になります。

おそらく幸さんの語り方からして、幸さんの体験はここまでで終わっていて、この後からは後日談のようなものと考えられます。白夜の夜に、ひねり座のバイオリンの弦がパラパラと落ちてきて、みんなで食べるという部分です。そしてその落ちてきた弦は、ラーメンであり、タペストリーのときのラーメンとは、別件なのだそうです。

幸さん曰く、この話が伝えたいことは「何もない」ということであり、それ以上の意味はないそうです。タペストリーのラーメンがひねり座の弦のラーメンとは別件であることを通して、私たちが「ある」と思っていることも実際には「ない」という思想、すなわち「空」の思想を教えてくれているというのです。彩さんは、「般若心経やがな!般若心経やからもうええわ」と言って漫才が終わります。前回書いたように、彩さんは「『空』の思想なら般若心経のやつと同じだ」と納得して帰っていったのでしょう。これが、砂漠のネタのあらすじになります。

 

6.物語の詳しい考察

幸さんは、この物語の真意は「何もない」ことだと言いますが、私たちはもう一歩踏み込んで、物語で起こるさまざまな出来事の意味を考えていきましょう。ここからは、物語の解釈についていくつか仮説を立て、それがどのくらい妥当かということを検証していきます。

仮説1:ラーメンは「生命」を表している

『砂漠のネタ』に対する僕の解釈の基礎になっているのが、ラーメンが生命を象徴しているという考え方です。その根拠を具体的にみていきましょう。最も大きな根拠は、バイオリンが星になり、その弦がラーメンになったという点です。私たち人間には、「死んだ人が星になる」という思想があります。ひねり座、そしてバイオリンは、生きていた何かが成仏した姿と考えることができるのではないでしょうか。

そしてもう一つの根拠は、バイオリンの弦がラーメンになったものを人間が食べているという点です。これは、死んだ命がまたほかの生き物のえさとなるという、食物連鎖の仕組みを表していると考えられます。

もしもラーメンが生命であると仮定すると、幸さんの一連の行動は次のように解釈できます。幸さんは砂漠の中に、ある生き物(バイオリン)を見つけた。幸さんはその生き物を殺してしまった(海に投げ込んだ)。しかし、その死んだ生き物を温かい慈悲の心で弔う聖者(二足歩行の人)が現れた。その聖者のおかげで、死んだものは成仏することができ、また新たな命へと続く輪廻に組み込まれていった。このように考えることができるのではないでしょうか。

このようにラーメンを生命と捉える根拠については、この記事のまとめの部分でももう少し書くことにします。

論理が飛躍しすぎていると思う方もいると思うのですが、この解釈が一応正しいものとみなしたうえで、もう少し考えてみましょう。

仮説2:バイオリンを投げる行為は人間の野蛮さを、二足歩行の人は人間の善性を表している

幸さんがバイオリンを投げた行為は人間の野蛮な心を象徴しており、二足歩行の人が人間にそなわる慈悲の心を表していると考えられます。ここで重要なヒントになるのが、「二足歩行の」という言葉です。彩さんは「人はだいたい二足歩行やん」と言うのですが、幸さんはこれには答えません。幸さんの「二足歩行の」という断りには含みがあります。この言葉を僕は、「畜生のように野蛮ではない」人間という意味に解釈しました。二足歩行の否定は四足歩行ということになりますが、それは広い意味での動物を表します。ということは、「二足歩行の」という言葉には、人間をほかの動物とは別の生き物にする、すなわち人間を人間たらしめるものという意味が込められていると思うのです。

そう考えると、直前のバイオリンを投げる行為が野蛮な行為として、二足歩行の人がバイオリンを持って星になったという結末が聖なる行為として、両者がうまく対比されます。物語全体を通して、この二足歩行の人以外の人間は、どちらかというと野蛮さや欲望を持つものとして描かれています。最後にラーメンを食べる場面も「みんながお椀を持って集まって」と言われているように、寄ってたかって食べ物をむさぼるようなイメージがあります。そして、バイオリンを投げたのは、まぎれもない幸さん自身です。幸さんの話には、誰もが野蛮な心を持っているのだという戒めが込められていると同時に、生命をいつくしむ心の大切さを教えているのではないでしょうか。

仮説3:毛糸屋で幸さんに話しかけてきたラーメンも「生命」である

もう一つの大きな問題は、物語の前半、毛糸屋さんで登場したラーメンが何を表しているのかです。幸さんが商店街の毛糸屋さんに入ると、1枚のタペストリーの毛糸たちが話しかけてきます。そして彼らは「私たちは、ラーメンです」と言ったのでした。いったいこのラーメンは何を表しているのでしょうか。

一つの可能性は、シンプルに、毛糸たちは「あなたが布だと思っている物は、実はラーメンですよ」ということを訴えていて、「目に見えているものが真実とは限らない」という教訓を示しているという考え方です。これは彩さんの理解したような、般若心経の思想と整合性がとれます。

もう一つの考え方は、こちらのラーメンも「生命」を表しているというものです。何よりも、そもそも「話しかけて」きているのですから、布には生命らしき何かが吹き込まれていると考えるのが妥当です。そして「七色」という言葉には、生命の多様性や、生命状態の多様性が表れているのではないでしょうか。生命状態とは、悲しいときや嬉しいときなど、刻々と変わる心の動きのことです。どちらにしてもこの場面は、さまざまな生命が幸さんに向かって「自分たちは生きている!」と主張しているように見えます。

ただし、最初に出てくるラーメンと、最後に出てくるラーメンは「別件」だということを忘れてはなりません。もしも二つのラーメンが別件ならば、どちらも生命を象徴していると考えるのは無理があるかもしれません。しかし、僕はあえて、これらはどちらも異なる姿をした生命なんじゃないかと思います。「別件」であるという視点は幸さんの解釈であり、客観的に見れば、どちらのラーメンも実は生命を表しているともいえます。幸さんは二つのラーメンはまったくの無関係とみなしましたが、実は良く考えると、どちらも生きているものである。こういう解釈も可能なのではないかと思います。

仮説4:幸さんがアリジゴクに落ちた場面は人生の挫折や苦労を表している

物語全体を見渡すと、もう一つ解き明かしておくべき謎があります。それは、冒頭の場面。幸さんが砂漠の中でアリジゴクのようなものに落ちてしまうところです。砂漠から落ちたところはまた砂漠だったということの意味を少し考えてみましょう。

ここの解釈は僕にとって難しかったのですが、大きなヒントになるのは、幸さんが商店街を歩いているときに、穴に落ちるところの「わたくし」を目撃するところです。これをもう一歩踏み込んで考えると、幸さんが目撃して穴に落ちていったもう1人の幸さんは、さらにまた砂漠の上に落ち、そこでまた穴に落ちる幸さんを目撃する。落ちていった幸さんはまた砂漠で次の幸さんを目撃する。というように、無限ループになっているといいう仮説が立ちます。

ところで、「落ちる」という出来事は、何かネガティブなものを表していると思われます。そして、穴に落ちている自分を客観視しているということは、「苦しんでいた過去の自分を振り返っている姿」ということができます。穴に落ちた幸さんがまた次の自分を目撃する、というサイクルは、人生の中で繰り返し試練を乗り越えていくことを暗示しているのではないかと思います。

仮説5:最大の謎「やっぱりバイオリン」は、生命の気配を感じていたということか

この物語において一番理解しがたいのが、「やっぱりバイオンリン」というセリフです。幸さんが一体どういう気配を感じていたのかがわかりません。しかも、物語全体を通して幸さんの気持ちが述べられている箇所が少なく、ここの「やっぱりバイオリン」の部分が、幸さんが一連の出来事をどう捉えているのかを知るための貴重な手掛かりなのです。だからこそこの部分の理解が肝となるのですが、皮肉にもここが一番難解なのです。

前提として、先ほどから述べているように、物語全体を通して「生命」というテーマが貫かれているとするならば、物語の舞台である「砂漠」は、生命が育たない場所ということができます。そして、最初のラーメンが登場する「世界一長い商店街」が、「不毛な砂漠」と対比される場所だとするならば、商店街は生命が存在する場所として描かれているのかもしれません。

ここまでの仮説を総合すると、幸さんが砂漠の中からバイオリンを発見していることは、生命が育たないはずの場所から生命を見出した経験ということができます。幸さんがバイオリンを発見したのが、商店街でタペストリーを見た直後であることも、重要な意味があるかもしれません。幸さんは砂漠の中で、生命の気配を感じていたのでしょうか。いずれにしても、なぜ商店街か、なぜバイオリンかという疑問は残ります。そしてあとひとつ、なぜひねっているかですね。これらの疑問は今回は解決できませんでしたが、見る人それぞれに解釈があると思います。

 

7.まとめ―なぜ仏教的に見るのか―

さて、考え始めるとどんどん深入りしていって、5つもの仮説を立ててしまいました。Dr.ハインリッヒの漫才の可能性を少しでも感じてもらえればいいなと思います。前編からここまで、コンビの魅力やネタの詳しい考察をしてきました。その中で、物語のテーマを「生命」に見出したり、成仏や輪廻の考え方を取り入れたり、何かと仏教的な解釈に偏っていた感じがします。それには一応の理由がありますので、最後に少しその話をしようと思います。

Dr.ハインリッヒは漫才のほかには、TwitterInstagram、ブログなどの媒体で情報を発信しています。芸風は謎めいたお二人ですが、その思いや考え方は、意外とさまざまなところで知ることができます。いろいろなところで彼らの発言や発信を見ていると、多少なりとも、仏教的な思想が彼らのバックボーンにあることは確かです。

たとえば、昨年のM-1予選で披露した「チャーハンを食べるデブの鰯」のネタは、物語全体を通して「輪廻」がテーマになっています。また、今回取り上げた『砂漠のネタ』でも、彩さんは物語を般若心経と捉えています。それに、Dr.ハインリッヒが自分たちの熱心なファンのことを「信徒」と呼んでいることからも、彼らが宗教的な何かを持っていることがわかります。このような背景があって、『砂漠のネタ』の解釈を考えるうえでも、仏教で説かれる生死観を大いに参考にしました。

最後になりますが、Dr.ハインリッヒは、これからも漫才をし続け、美しい笑いを届けてくれると思います。まずはラストイヤーとなる今年のM-1グランプリを全力で応援し、これからの活躍をお祈りして、今回の記事のまとめとさせていただきます。

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