教師は「守り」の職業である

どうもシャオムです。

教職課程をとっていてつくづく思うのは、「教師にそんなに求められたところで、なんでもかんでもできひんで。まあ頑張るけども」ということです。要するに教師養成の授業の全体に、どこか現実的でないような「違和感」を感じています。教師を目指している学生の中に、同じような違和感を抱いている人は少なくないと思います。それはおそらく、教職課程の多くの指導が精神論のように聞こえるからです。たとえば、生徒指導では、「どんな生徒の発言も受け入れなさい」や「自分の気持ちは脇に置いて生徒の発言を聞きなさい」というような心構えが説かれます。もちろん、これは教師としてあるべき姿勢ですから、どこにも間違いはないのです。ただ、僕からすれば、「そんなことはわかっているけども、教師がそうやって生徒を受け入れたり傾聴したりできない原因はどこにあるのか」という仕組みが問題なのです。生徒を受け入れなさい、耳を傾けなさいと教えられたところで、いざ生徒に対面したときに「教わったとおりに頑張ろう」という精神的な準備しかできないわけです。そんな精神論よりも、「教師が聖人のように無条件に生徒を受け入れないといけないのはなぜなのか」とか「教師が、親のように無条件に愛情を注げない理由はどこにあるのか」という、仕組みや人間の心を考えないことには、困るわけです。つまり、いざ問題にぶつかったときに、その原因を自分にしか求められず、精神的に負けてしまえばそれで終わってしまうのです。

今の教員養成の仕組みを批判しているような議論になってしまいましたが、僕は教職課程を批判しているわけではありません。たとえそれが精神論であったとしても、教師になるために精神論を学ぶことは大事なことだからです。そして、そこで教えられているのはもちろん精神論だけではなく、教師にとって重要な技術的な部分です。ただ、僕が考えるのは、もしも教師に精神論を言うのであれば、みんなは教師に「創造性」とか「人間としての魅力」とか、そういうものを求めるのはやめた方がいいです。要するに、「教師にあまり期待するな」ということです。

もしも教師に「粘り強く頑張れ」「子どもを見捨てないでくれ」と言い、それを教師の仕事とみなすならば、それは「医療」や「介護」や、もっと広く言えば「清掃」や「修理」などのような仕事の仲間だと捉えるべきです。つまり、世の中にプラスの価値を生み出す仕事ではなく、マイナスの価値を減らす役割の仕事だということです。新しいモノやサービスを作る企業の仕事を「攻め」の仕事というならば、マイナスを減らす仕事を僕は「守り」の仕事と呼びます。一般的に、「教育」という仕事が、攻めなのか守りなのか、いまいちはっきりしないのです。両方を求めるという考え方もあると思いますが、僕はあまり「攻め」の教育に良いイメージを持っていません。どちらかというと、「いらんことを教えるぐらいなら黙っとけ」と思う方です。どうせなら「守り」に軸足を置いて、どこまでも子どもを守り抜くと考えた方が、いろいろ納得がいくのではないでしょうか。

世の中には学校を批判する声もあります。これからの社会に必要な人材を育てるために、学校はもっと変わらないといけない、というような意見です。これは、学校に「攻め」の教育を求めた意見といえるでしょう。学校にそんなことはできないとあきらめた人は、とっくに学校とは別の教育を考えていることでしょう。しかし一方で、今学校がなくなればたちまち困ってしまう子どもや親は大勢います。学校は、これらの人々の権利を守り、生活を守り、生きていくための道を与える、と考えた方が、僕には学校の役割がすっきりするような気がします。あくまで、これは制度が変わるべきだという意見ではありません。社会が学校をどう捉えるかという問題への、一つの視点として受け入れてもらえれば、それでよいのです。

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