【連載小説】『クアラルンプール』〜2日目(後編)〜

 鳩の広場にある土産屋の前で、運転手と落ち合った2人は、金ピカの像をバックに写真を撮ってもらってから、タクシーに乗り込んだ。
 運転手は、特に感想を聞いてくるのでもない。タイムズ・スクエアにあるブキッ・ビンタンへ車を走らせる。
 シャオムが車の中を飛び回る蚊と格闘していると、すぐにタクシーはブキッ・ビンタンに着いた。
「お腹が空いたね」
 2人はブキッ・ビンタン最大のショッピングモールである「パビリオン」で、中華料理を食べ、スーパーマーケットでお土産を買った。
 パビリオンの周辺は常に大勢の人の往来があり、非常に賑やかである。日本では、渋谷のスクランブル交差点が、「大勢の人が行き交う場所」の代名詞であるが、その水準の混雑となる地点が、このエリアにはいくつもある。
 横断歩道はあるにはあるのだが、歩行者信号は一度赤になると、次に青に変わるまでに7、8分かかるため、信号待ちの歩行者で付近が溢れかえる。
 せっかちな人たちが、痺れを切らして赤信号で横断するので、そこへ来た車から爆音のクラクションをお見舞いされるのである。
 とにかく、人も、音も、何もかもが過密という感じがする。
 シャオムとアンビは、パビリオンを後にし、ブキッ・ビンタンの駅に向かって歩いていた。
「本当に人が多いな」
 最も混雑しているエリアを抜けると、今度は巨大な着ぐるみがニコニコして立っている。日本の遊園地で見かける着ぐるみのマスコットよりひと回りもふた回りも大きい。
 2人はブキッ・ビンタンの駅から鉄道に乗り、「マスジット・ネガラ」という国立のモスクに行こうとしていた。
 アンビがこの旅行で訪れたかった場所の一つが、イスラム教の礼拝堂であるモスクである
 アンビは社会科を教えているというのもあるが、やはりその国の文化を知るために、宗教について知ることは欠かせない。
 ましてや、マレーシアはイスラム教を国教とする国である。マレーシアに行ったならば、当然、モスクには行ってみたいというのが2人の希望であった。
 2人はブキッ・ビンタンの駅に着くと、まず、手持ちのクレジットカードで改札が通れるのかを試してみた。
 シャオムは、出発前に、自分が持っているクレジットカードが、マレーシアの鉄道の電子決済に対応しているというのを、ある記事で読んだ。
 しかし、改札はシャオムを通してはくれなかった。仕方なく、券売機で「トークン」と呼ばれる通行券を買わなければならない。日本の駅の改札のように、失敗しても「ピンポン!」という大きな音は鳴らない。
 券売機が大きな紙幣を受け付けてくれなくて手こずったが、なんとかトークンを購入した2人は、長いエスカレーターを下り、地下のプラットホームに降り立った。
 間もなく、電車はホームにやってきて、2人は乗り込んだ。日本と同じく、優先座席や女性専用車両もある。車両編成は、4両から5両くらいである。
 2人は電車に乗り込むと、すぐに、あることに気が付いた。クーラーが効きすぎているのである。
「めちゃめちゃ寒いな」
 と、2人は口を揃えた。
 今回、マスジット・ネガラの最寄り駅までは、5分程度であるが、もし20分でも乗っていなければならないとなると、この寒さはちょっと耐えられない。動物園で、ホッキョクグマのいるコーナーに入ったときのような寒さである。
 アンビは賢明で、長袖のパーカーを持ってきている。シャオムは半袖で寒かったが、すぐに着くので今回はまあ大丈夫であった。
 電車を降りると、駅の中でストリートピアノを奏でている人がいた。YOASOBIの「アイドル」を弾いている。日本の音楽はここでも人気なのだろう。
 2人は少し歩いて、マスジット・ネガラに到着した。マスジットとはモスクのことであり、ネガラは国立を意味するらしい。
 入り口では、多くの観光客が受付をしていた。イスラム教では、女性はヒジャブと呼ばれるスカーフを身に纏う。女性の観光客たちは、ヒジャブをレンタルして羽織っていた。
 シャオムとアンビは、すばやく受付を済ませると、靴を脱いで下駄箱に入れ、中に入っていった。
 さすが、国立のモスクである。青色を基調とした館内の壁や床はすべて美しく、広々としている。天井は高く、たくさんの信者を収容できるようになっている。
 順路を半分くらい進んだところで、シャオムは、スタッフの男性に声をかけられた。
 何を言っているかわからないが、強めの口調で入り口のほうを指差している。戻れと言っているようだ。
 シャオムはこの日、モスクに行くとは思っていなかったので、短パンで過ごしていた。
 おそらく、短パンだと、モスクに入るには、肌の露出が多すぎるので、宗教上問題なのだろう。
 シャオムは仕方なく引き返して、入り口でアンビを待つことにした。
 2人は昨日も、アロー通りのマーケットに行く前に、別のモスクを見物していた。そのときも、靴を脱いで入らなければならないことを知らず、土足で見学していたら、「君たちはムスリムか?」と怒られて、すぐに追い出されてしまった。
 人々が大切にしているものを侵すのは、良くないことである。悪気はないのだが、シャオムは、このような場所で、あまり気軽に行動しないでおこうと思った。
 シャオムがマスジット・ネガラの前で、トルコ人の中年の男に話しかけられていると、アンビが戻ってきた。
 トルコ人は、ぺらぺらと積極的に質問し、1リンギット札と日本の10円玉を交換してくれと頼んできた。やや怪しかったが、悪い人ではなさそうだったので、シャオムは交換に応じた。
 いろいろな国のお金を集めるなど、そういったことが好きなのだろう。
 トルコ人との交流を終え、シャオムとアンビはマスジット・ネガラの前でタクシーを捕まえた。
「やあ、どこまで?」
「バンサーまで」
「25リンギットだ」
「OK」
 シャオムが運転手と簡単に会話をすると、車は勢いよく走り出した。
「君たちは、韓国人?それとも日本人?」
「日本人です」
「おー、日本人!いいね」
 運転手は、観光客を乗せるのに随分慣れているらしく、中国人かそうでないかの見分けはつくが、日本人か韓国人かの区別はまだつかないらしい。彼はマレーシアにある日本の企業のことなどについて、ぺらぺらと得意げに語ってくれた。
「ところで、バンサーに何をしに?」
「インディアン・カレーが食べたいんだ」
「インディアン・カレー?それは兄ちゃんたち、行くところが間違ってるぜ」
 シャオムは、今回の旅行で、インディアン・カレーを食べたいと思っていた。マレーシアにインド系の人々が住んでいることから、美味しいカレー屋さんがあるに違いないと思っていたのだ。実際にインターネットで調べてみると、バンサーというエリアに、一軒、良さそうなレストランが見つかったのである。
「インディアン・カレーが食べたいなら、バンサーじゃなくて、ブリックフィールズだよ。ここにはリトル・インディアがある。美味しいカレー屋さんくらい、山ほどあるよ」
 シャオムは、面食らってしまった。バンサーに行こうと思っていたのに、運転手がブリックフィールズに行くと言うのである。
 シャオムが運転手の言うことを訳してアンビに伝えると、アンビは大笑いしている。あまりにも運転手が自信満々なのが、面白いのだろう。
「ああ、わかった。じゃあブリックフィールズに行ってくれ」
 シャオムは結局、リトル・インディアを見てみるのも悪くないと思い、行き先を変更することにした。ブリックフィールズとバンサーは、歩いて20分ほどの距離にあり、めあてのレストランには、最悪ブリックフィールズから徒歩で行けば良いと思った。
「ここのカレーがきっと美味しいよ」
 運転手はブリックフィールズのとあるインディアン・レストランの前に車をつけた。
 シャオムとアンビは運転手にお礼を行って、言われた通りその店に入ろうとした。
 しかし、店はまだ閉まっていた。
「あれ。もう18時なのにまだ開いてない」
「あの運転手、開いてない店に連れていくってどうなってるんだ」
 レストランはビルの1階にあったが、ビルの中のテナントもほとんどがら空きの状態であり、人の気配もあまりない。
「まいったな。リトル・インディアどころか、ノー・インディアだ」
 シャオムとアンビは、仕方なく辺りを散歩しながら、当初の目的地であるバンサーに向かうことにした。
 少し歩くと、リトル・インディアの名にふさわしい、たくさんの露店が立ち並ぶ道路に出た。軒先には、髭をたくわえた男たちが機嫌良く歩いている。息を吸うと、スパイスの香りだ。
「リトル・インディア。いいね」
 シャオムとアンビは、ここの雰囲気が気に入った。しかし、適当に店に入って、そこの味が口に合うのか不安だったので、リトル・インディアの町は通り過ぎ、予定通りバンサーに向かうことにした。
 賑わっている通りを抜けると、途端に住宅地が続く。
「こんなところ、観光客が来るところじゃないんだろうな」
 2人はそう言いながら、インド系住民たちの住処である家々の間を歩いていった。
 団地の集会所で談笑する人々。八百屋で買い物をする母と娘。想定外だったが、シャオムとアンビは、ここの人々のローカルな暮らしの実態を、自分たちの目で見ることができた。
「ここがサガー。開いてるかな?」
 2人はバンサーにある、サガーというレストランに到着した。
 まだ誰も客はいないが、白と黒の正装に身を包んだ店員の男が丁寧に席に通してくれる。
「ごゆっくり」
 シャオムとアンビはメニューを渡されたが、ここでもメニューはすべて文字だけで写真がない。シャオムはすぐにさっきの男を呼んだ。
「ちょっと何が何だかさっぱりわからないから、相談に乗ってくれないか」
「もちろんです」
「カレーをいくつか。それからナン。カレーは辛くないのがいいよ」
 シャオムがそう伝えると、店員はマトンのカレーとバターチキンカレーにナン、そしてタンドリーチキンを提案した。
「うん、良さそうだね」
 シャオムはそれらの食べ物が本当に辛くないのかを再度確認し、言われた通りに注文した。
 店内は広々としてやや暗く、落ち着いている。インド系のテレビが映されている。少しずつ客がテーブル席を埋めていっている。
 まずはじめに来たのは、タンドリーチキンであった。
「美味しいね。そんなに辛くない」
 日本で食べるタンドリーチキンとは、少し違った風味がする。シャオムとアンビはこれが気に入った。付け合わせのニンジンが生だったこと以外は。
 その後、2種類のカレーとナンが運ばれてきた。シャオムとアンビは、マトンのカレーが辛すぎて、食べるのにかなり苦戦した。
 あれだけ辛くないことを念入りに確認したのに、この有り様である。やはり、辛さの感覚が我々とは違うのであろう。アンビは特に苦しんでいた。しかし、味は非常にうまいのだ。食べたいのに、辛くてしんどい。
 シャオムは、支払いをするために、最初の店員の男を呼んだ。
「ありがとう。おいしかったよ。ところで、辛くないように言ったのに、マトンのカレーが辛かったよ」
 シャオムがそう言うと、店員は、いたずら好きの少年のような目をして、笑っていた。

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