【連載小説】『クアラルンプール』〜3日目(前編)〜
「おや、日本人の方ですか?」
「はい。そうですが」
「おお、日本人ですか!それはそうと、このツアーのことをどこで知ったのですか?」
シャオムとアンビは、ミュージアムの入り口で、見知らぬ日本人の壮年から声をかけられた。
「はあ。いやあ、たまたま今ここに来たところなんです」
「それはそれは。もしよければご一緒にどうですか?」
この壮年は、クアラルンプールにある国立の博物館、その名もミュージアム・ネガラで、日本語ガイドのボランティアをしている人物であった。温厚そうな人である。
シャオムとアンビは、この日、マレーシアの歴史を知るため、朝から、このミュージアム・ネガラを訪れたのであった。2人がチケットを買って入場した10時ごろ、ちょうど、壮年の日本語ガイドツアーが始まるところであった。
「それでは、そろそろ行きましょうか」
ツアーにはシャオムとアンビのほかに、もともと申し込んでいたとみられる女性が2人、参加していた。1人はシャオムとアンビと同世代か、少し歳上くらいの女性。もう1人は、自分の子どもと一緒に旅行でマレーシアに来ていて、子どもが国際キャンプに参加している間に1人でミュージアム見学に来たという母親であった。
ミュージアムのロビーでは、校外学習に来たと思われるマレー人の子どもたちが、わいわい言いながら列を作っている。シャオムとアンビも、普段から仕事でこのような引率をしている。2人は、国が違っても同じように子どもたちが校外学習をするのかと、感心した。
日本語ガイドによるツアーの参加者たちが、互いに簡単なあいさつを済ませると、一同は、「古代」の展示エリアに入っていった。
ミュージアム・ネガラは、4つの展示エリアから成り立っており、見学者は古代から順番に、マレーシアの歴史を学んでいくというつくりであった。
「これは縄文土器みたいなものだね」
古代には、日本の縄文土器や弥生土器などと同じような土器が作られたらしい。これらの史料から、当時の人々の生活がわかる。
ガイドの説明は、非常にわかりやすく、興味深い。アンビは社会科教員なので、自分の知っていることと照らして納得しながら聞いているようだった。
一行が近世のエリアに入ると、マレーシアが植民地化された時代の話になり、ますます興味深くなっていった。
植民地としてのマレーシアの歴史は、1511年に、ポルトガルが航海に出てマラッカという港町を占領したことから始まる。このマラッカは、日本に鉄砲が伝来したときも、フランシスコ=ザビエルがキリスト教を伝えたときも、中継地点になった場所のようである。
その後、1641年にオランダがマラッカを占領。オランダは、世界初の株式会社といわれるオランダ東インド会社を設立し、アジア方面への植民地化支配を強化していた。マラッカの占領もその一環であったといわれる。
ここで世界史を詳しく紹介することはできないが、18世紀末に、今度はイギリスがマラッカを占領し、1874年にイギリス領マラヤを設立する。その後は、太平洋戦争中に日本がマレーシアを占領した時代を除いて、1957年のマラヤ連邦の独立まで、基本的にはイギリスが統治することとなるのである。
アンビはもちろんのこと、シャオムも、世界史のざっくりとした流れは頭に入っていたので、ヨーロッパ諸国や日本の動きとマレーシアの歴史を照らし合わせて、非常に興味深く感じながら説明を聞いていた。
「良いか悪いかは別として、これがマレーシアの歴史です。」
ガイドは何度も、「良いか悪いかは別として」というセリフを口にした。植民地支配は、それぞれの民族が自分たちで自分たちの土地を治めるという、民族自決の理念から考えると、許されるものではあるまい。しかし、一方で、植民地支配の歴史によって、生まれた文化や、人々の交流など、植民地支配が残した遺産もあるといえる。
歴史を学ぶとき、特定の個人や国家が行ったことが「正しかったのか?」と問い、価値付けをしていくことも大切である。
しかし、ここでガイドが強調したのは、「良い・悪い」は一旦置いておいて、どんな歴史の上に今のマレーシアがあるのかを知ってほしいということであろう。
日本は戦時中、マレーシアを占領し、現地の人々を苦しめたという史実もある。
しかし、現にシャオムたちが出会うマレーシアの人々は、日本人であるシャオムたちを快く迎えてくれている。
政治の次元を超えて、民間人同士が心を通わせていくことこそ、平和の基礎になっていくに違いない。
ミュージアムの見学を終えた一行は、最後にガイドにお礼を言い、解散した。シャオムとアンビは、ミュージアムの土産物屋で少し買い物をして、その場を後にした。