教育における「管理」と「保護」の関係

どうもシャオムです。

前回、人間と自然の関係を通して、「保護」と「管理」は一体であるということを考えました。自然を人間の手で管理しようとする西洋のあり方の方が、自然を畏れる日本よりも、結果的に自然を守ることにつながっているという話でした。今回は、教育に話を移して、子どもを保護するということについて考えてみましょう。

教育思想や教育哲学にはさまざまな立場があります。たとえば、ゆとり教育を肯定するのか否定するのか。ゆとり推進的な立場は、日本の入試の制度を批判的に捉え、より自由な学びを賞賛します。さらに昔にさかのぼれば、ジョン・デューイが言うような経験主義の教育に賛成するのか、はたまた系統主義と呼ばれる学問の系統を重んじる立場をとるのか。子どもの経験を重視する経験主義の方が、枠にとらわれない自由な教育といえるでしょう。このように、さまざまな教育に対する考え方に共通する一つのテーマは、「自由な教育か、否か」という点です。

もっと極端なものでは、学校という存在が自由な教育を不可能にする存在だと捉え、学校そのものを否定するような考え方もあります。このように、教育における自由は大きな問題なのです。

ところで、今の日本の教育は、自由な方へ向かっているのか、不自由な方へ向かっているのか、どちらでしょうか。いろいろな見方はあるでしょうが、大学入試改革などは、自由な方への動きといえるのではないでしょうか。自由や自由主義といっても、その意味はさまざまです。政治における自由主義新自由主義も一口にどんな考え方かを説明するのは簡単なことではありません。しかし、教育における「決められた学習内容ではなく、子どもが学びたいことを学べる教育」を目指すような流れは、自由を求める動きといえます。

そこで問題になるのが、前回テーマにした「管理」と「保護」に関することです。子どもの学ぶ内容を画一化し、すべての子に同じ教育をしようとするとき、子どもの自由はもちろん奪われます。しかし、それは同時に、何を学んで良いかわからない子どもを助けている側面があります。もっと実際的には、学校で学ぶ内容が画一化されていることによって、塾や市販の参考書などに頼って勉強することができるのであり、自由に好きなことを学びなさいと言われても、何をしていいのかわからない子どもはたくさんいます。これは、管理と保護が一体となっている例でしょう。

また、学校という仕組み自体が不自由な仕組みであり、子どもの自由や個性を奪うという考え方についてはどうでしょうか。もし学校という仕組みをなくしてしまえば、困ってしまう子どもや親は大勢いるでしょう。仮に学校に代わる学びの機会が全員に保障されていたとしても、現状のような、全員を同じ仕組みの中で扱ってくれる学校がないことは多くの人にとって問題になります。学校に行くことが当たり前である今は、学校が子どもたちを「守っている」という意識はしにくいものです。しかし、確かに学校は、子どもたちが毎日勉強をする場所として、友だちと会う場所として、大人の保護のもとで過ごす場所としての機能を果たしています。これは、不自由だからこそ成り立っている「保護」なのです。

今回は、「管理」と「保護」の話を教育に当てはめて考えてみました。この考え方は、自然を守ることや子どもを守ることを考える上で大きなヒントになるのではないでしょうか。

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