【今年のまとめ】教育における「ケア」の価値

どうもシャオムです。

この何日か、年末なので、今年一年の「仮説」をまとめたり、学びの仕方を振り返ったりしてきました。今年最後となる今回は、僕にとって総じて最大の気づきであった「教育における『ケア』の価値」について、改めて触れて、今年を終わろうと思います。

5月に書いた「個別指導はケアワークである」という記事が、出発点でした。教育というと、勉強を教えるということがメインでイメージされやすいものです。教育のあり方というテーマでも、学力を重視する立場と子どもの個性や自由な学びを支持する立場の議論があるように、「学習」という軸で語られることが多いです。しかし、一方で、学校教育では生徒指導の重要性が説かれるように、学びに向かう前のベース(物理的・精神的な安定や家庭教育、生活基盤など)が整っていなければ、勉強どころではないということも、広く認識されています。教育が、勉強だけではなく、人間を育てるための全体的な活動であることは、誰もがわかっていることだと思います。

ただ、現状、学校は、これまでのやり方を変えようとすれば、子どもの学力低下が問題とされ、学力に力を入れれば学校の勉強なんて役に立たないと言われます。教師1人に求められる仕事や能力をとってみても、負担が大きすぎるといえます。教師はこれからますます、「なんでも屋」としての仕事をしていかなければならないでしょう。コロナ禍で看護師をはじめとする医療従事者が、緊迫した環境の中で日々働いてくださっているのは、毎日の報道で見る通りですが、社会全体として、公の仕事にかかる負担は大きくなってきています。

世論を形成する市民としては、これらの仕事を分散し、当事者たちの負担を減らすことを考えていかなければならないと思います。僕は、学校の仕事に関しては、子どもの居場所として、子どもを保護するという役割がもっとも重要だと考えるようになりました。教師の仕事も、「教える」ことよりも「守る」ことへ、重心が移っていくべきではないでしょうか。高い学力や新たな能力を育てることは、学校に期待するべきことではないのではないでしょうか。まだまだ浅い思考ですが、少なくとも、学校に対するこのような考え方には、一定の価値があるのではないかと思います。

一年間、ダダオ・シャオムの A Piece of Paper を読んでいただき、誠にありがとうございました。来年も、さらに緻密な学びを共有し、皆さんとともに学びを深められるよう、取り組んでまいります。良いお年をお迎えください!

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