政治における「管理」と「保護」の関係

どうもシャオムです。

エイブラハム・リンカーン奴隷解放をしたとき、それまで奴隷として扱われていた人々はどうなったのでしょうか。私たちは歴史を学ぶとき、「奴隷解放」と聞いて「人々は自由になったのだ」と理解して終わってしまいがちです。しかし、ちょっと考えてみれば、奴隷解放は、今まで親の命令に従わされてきた子どもが急に家から放り出されて、「勝手に生きていってくれ」と言われているようなものだと思いませんか。

前々回の記事では自然の管理と保護の関係を、前回では子どもの管理と保護の関係から教育の問題を考えました。今回は一連の話の最後として、管理と保護の関係を、政治の視点から考えてみたいと思います。

いま、国際社会の規範となっている「人権」という概念は、人が人の上に立つというような優劣を認めません。封建時代の日本の、武士と農民のような身分に差があることは許されないことになっています。「差別は悪」ということが、世界のスタンダードになっています。

ただ、制度の上で差別ができなくなった人たちの中に、もともと存在していた「差別する心」は、その後どこに向かったのでしょうか。この問題を考えると、奴隷解放や身分撤廃が、ただちに人々を本当の意味で解放し、自由にしたかといえばそうではないことが想像できます。

たとえば奴隷制においては、奴隷として働かされる人々は、奴隷という立場で主人に面倒を見てもらっていたということができます。もちろん、それは同じ人間としてではなく、家畜のように非人道的な扱いを受けていたことでしょう。しかしここでも、「管理」と「保護」は同時に機能していて、人々は奴隷として管理されながらもある意味で保護されていたと考えることができます。これは一見過激な議論に思われるかもしれませんが、もちろん現代のイメージの「保護」からは程遠い扱いであったでしょうし、そこから奴隷制を是とすることは絶対に許されません。それだけ断っておきます。

そして、奴隷制が終わり、主人の「管理」と「保護」から解き放たれた人々はどうなったでしょうか。その後のアメリカでは、黒人たちが不当に逮捕され、刑務所の労働力として、結局奴隷のように働かされていたケースも多くあります。奴隷解放は、一面から見れば、単なる制度の変更でしかないという見方もできます。それは、奴隷制という厳しい「管理」から解放された人々は、同時にその「保護」からも外され、社会の一員として自立して生きていくことはできなかったことを示しています。

このように、自己責任論を全員に押し付けるならば、確実に社会からはみ出されてしまう人が出てきてしまいます。これを、自己責任で片付けるという考え方もあります。しかし、同じ人間として生きている以上、自己責任という建前で特定の人々を社会から追い出してしまったツケは必ず返ってきます。つまり、制度を変え、社会を自由にしようとするときには、それによって「保護」されなくなる人々をどうするかという問題を外して考えることはできません。国営企業を民営化するときには、誰かが職を失うかもしれない。関税をなくして自由貿易をしようとするときには、関税に守られていた国内産業があることでしょう。奴隷も民営化も関税も、社会問題としての次元はまったく違いますが、「管理」と「保護」の原理はすべてに通じるものなのではないかと思います。

3回にわたって「管理」と「保護」について考えてきました。仕組みの上だけでものを考えると、どうしても自由と保護はトレードオフのようになってしまいます。もしも人間が本当に自由で安全になろうとするなら、母が子を守るような無償の愛や、宗教に説かれる愛や慈悲といった、「仕組みで説明できない力」のようなものが、結局は必要なのではないかと思います。

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