流行には「反動」がある

どうもシャオムです。

ある日、散歩しているとき、近所の公園を通りかかりました。この公園は、僕が子どもの頃にみんなで野球をしていた公園です。その日は、10人くらいの子どもたちが、僕らがしていたのと同じように野球をして遊んでいました。懐かしいなあと思いながら、その場を後にしました。しかし、実は少し前まで、この公園で野球をしている子どもはほとんどいませんでした。僕が高校生になったころから最近まで、この公園で野球が行われている風景は久しく見ていませんでした。これは、ある意味時代の変化だったといえるかもしれません。僕が小学生のときから少しずつ遊びのトレンドが変わり、野球の人気がなくなっていたということです。ところがここ1、2年で、公園に野球少年たちが帰ってきました。僕が通りかかったその時も、当たり前のように子どもたちが野球をして遊んでいました。この事実から、流行というものについて少し考えてみました。

公園の遊びの変化から僕が考えたのは、流行には反動があるのではないかということです。ある時流行っていたものの人気がなくなり、しはらくすると、また同じようなものが流行してくるということです。一時期、子どもたちが野球がしたくてもいっしょにできる友だちがいない状態が続いたあと、また遊びとしての野球が流行る時期がやってきたのではないかと思ったのです。

この「反動」という考え方は、ほかにも当てはまるのではないでしょうか。たとえば、政治の風潮として、市民の自由を拡大しようという流れと自由を制限しようという流れの対立する2つがあります。今はどちらかというと、自由を拡大する流れのように思います。しかし、自由をどんどん認めていこうという動きはずっと続くかと思いきや、人々がある程度自由になると、今度はその自由を制限しようという動きがでてくるものです。日本では、大正時代に入った時は民主主義が流行し、教育界でも自由な気風の学校が現れていましたが、その後軍国主義が強くなっていき、国民の自由は制限されるようになります。このように、「自由を認めるか」のような対立するトレンドは、シーソーのように行ったりきたりするものなのではないかと思います。

流行が行ったりきたりする理由はいろいろ考えられますが、やはり1つのものの流行の陰で利益を得ていない人や抑圧されている人がいます。そういう人たちの反発が徐々に強まっていき、反動的な力で流行を変化させると考えられます。野球が流行っていなかった時代には、野球がしたくてもできないという人たちのストレスが溜まっていたのかもしれません。再び公園に野球少年が帰ってきた背景には、そのようなストレスが原動力になった可能性があります。

社会の流れは私たちの生活を大きく左右するものです。流行っているもののところへお金が動き、政治が動くからです。そういう点では、民衆が力を合わせて「良いもの」を流行らせようとする姿勢は重要だといえます。環境を守るために「エコ」を流行らせよう、というような動きです。一方で、流行には反動をつくる作用があって、行ったりきたりするものであるならば、一時の流行に惑わされず、自分が正しいと思う考え方、生き方を持っていくことが大切かもしれない。ざっくりとした話ではありますが、そんな風に思考を巡らせた散歩でした。

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