【連載小説】『シェムリアップ』~1日目~

1日目

 大衆的なカフェの店内は、午後6時にもかかわらずそれなりの人で賑わっていた。一番広いテーブルで、二人の短パンの男がノートパソコンを開いていた。

「やあ、遅かったね」

 40歳くらいの方の男が、ダダオとシャオムを迎えてくれた。

トゥクトゥクがいつもと違う道で走ってて、ちょっと時間かかりましたね。こちら、シャオムです」

「はじめまして、シャオムです」

「ようこそ、シェムリアップへ」

 二人を迎えてくれたのは、安木さんという方である。シャオムは大学時代の先輩であるダダオに誘われ、初めてシェムリアップに旅行にきた。ダダオは大学3年のときに安木さんの会社でインターンをしていて、今年の夏からその会社に就職することが決まっていた。

 安木さんの隣にいるのは炭谷さんという方で、東大の大学院からいろいろ経て安木さんの会社に勤めているらしい。

「安木さん、結局いつ帰ることになったんですか?」

「ああ、さっきフライトとったよ。明日帰る。帰るというか、バリに行くよ」

 シャオムは二人と初対面であったが、二人は特にシャオムを気にすることなく会話している。仕事をしているのか、暇をつぶしているのかわからない。おそらく、明確な切り替えはないのであろう。

「シャオム君、自己紹介してよ」

 ふと、安木さんが口を開いた。

「去年大学を卒業して、今は教員をめざして勉強しています」

「趣味は?」

「合唱をやっています。あとは野球ですかね」

「ふーん。たしかに、合唱やってそうな顔してるね」

 シャオムは「合唱やってそうな顔」というのにはあまり嬉しい気はしなかったが、不思議には思わなかった。なんでも安木さんはピアニストとしても活動している音楽家であり、超大物ミュージシャンの伴奏を担当しているそうだ。合唱をやる人に対しても一定のイメージがあるんだろう。

 安木さんを中心に雑談をしていると、広池さんという男がやってきた。

「シャオム君、はじめまして。広池です」

 広池さんは安木さんの会社の副代表である。30歳くらいで、やはり短パンである。安木さんが落ち着いていて何とも言えないオーラを感じさせるのに対して、広池さんはとても人当たりが良い。なるほど、この二人がツートップというわけである。

「広池さん、お久しぶりですねえ。シャオムは途上国が初めてです。こいつはおもろいですよお」

 ダダオは安木さんの会社に深くかかわるようになってから、何度もカンボジアに来ていた。しかし、後輩であるシャオムと初めてシェムリアップを回るということで上機嫌だった。

「皆さん、晩飯どうしますか?」

 ダダオは夕方から空港にシャオムを迎えに行き、すでに腹を空かせていた。広池さんはそこまで空腹とはいかない様子だが、一応提案した。

「あそこは?エヌズの前のイタリアン」

 エヌズとは、安木さんの会社がシェムリアップにもっている雑貨店の名前である。現地の人を雇ってトレーニングしている。あくまで教育的事業である。

「イタリアンかあ・・・」

 安木さんはあまり乗り気ではないようだ。

「クメール料理はもう飽きましたね」

「またシャオム君と食べに行きなよ」

「そうだね。また明日にでも行こう。ルクラックがうまい店があるんだ」

 結局、エヌズの前のイタリア料理店に決まった。シェムリアップの市街地はもっぱら西洋化されていて、エヌズは市街地の少し細い洒落た通りの一角にあった。

「あー、閉まってますね」

「金曜の夜に開いてないって、いつ儲けるんだよ」

 エヌズは接客や事務だけでなく、その経営も現地のワーカーたちが担っており、安木さんの会社では彼らの教育が課題になっていた。

 周りの土産屋が活気づく中電気の消えたエヌズを横目に、一行はイタリアンに入っていった。店員がメニューを持ってくるより先に、黒猫がやってきた。飼い猫かのら猫か知らないが、犬に比べるとそこまで警戒することはない。犬に噛まれると狂犬病にかかって死んでしまうそうだ。シャオムはまだ初日ということもあり、周囲に警戒しながら過ごしている。

 ピザを3枚と、それぞれパスタを1つずつ注文した。

「あそこで座ってる人、ここの主人ですよ」

 広池さんによると、主人はいつも仕事をしているようでYoutubeを見ている。人柄は悪くないが、白人主義的な傾向があるそうだ。安木さんが「予想」を語り始める。

「彼は63までローマで会社員。リタイアしてからカンボジアに移り住んでここの店をやってるね」

 みんな特にこれといった反応はしていない。炭谷さんがちょっとだけ笑っている。

 シャオムはカンボジアに来てイタリアンとはどうかと思ったが、まあまだ5日ある。それにここのピザはうまい。

「シャオム君はなんで教師になろうと思ったの?」

 安木さんがまた、シャオムに話を振った。シャオムはもともと就職活動をせず、大学院でファイナンスを専攻しようと思っていた。しかし、大学4年の冬になって気が変わり、数学の教師になろうと思ったのである。当の本人もいつも、そのいきさつをうまく説明できないでいた。

「ふーん。なんだか、なんで先生になりたいのかわからないね」

 今回もうまく説明できず、安木さんは首をかしげている。彼の会社は日本各地の高校を顧客の一部としていて、多くの教員とのかかわりを持っていた。広池さんも炭谷さんも、「教師」や「学校」に対して、一定の批判的なイメージを持っていた。

「でもダダオとそこまで親しいなら、何か変わった理由があるんだろうね」

 と安木さんは言った。シャオムは自分の考えがうまく伝えられなかったにもかかわらず、安木さんが多くのコンテキストを読み取って一定の評価をしてくれたような気がした。と同時に、ダダオがこの会社で予想以上の信頼を得ていたことに驚いた。

「集団授業ってのは限界あると思うんだけど、どう思う?」

 広池さんが鋭い質問をする。シャオムが教員をめざそうと思ったのは、教育が自分にとって楽しいものである気がしただけであって、教育に対してすでに細かい思考をしているわけはなかった。

「学校教育ってのは政治だから、その辺を踏まえたうえでやらないとね」

 広池さんにしても安木さんにしても、初対面なのにズバズバ物を言う。しかし、どんな発言も受け入れてくれるような心の広さがある。「ダダオの友達」というライセンスのおかげもあろう。

「それにしてもハナは働きませんね」

 炭谷さんがエヌズの経営について話し出した。

「ベンさんみたいな人がいれば、もうちょっと回るんでしょうけどね」

 広池さんも真剣に事業のことを考えている。

「ベンさんがいれば、変わるのか?」

 ベンさんを雇うかどうかの問題から、会社のビジョンにまで話が及び、結局ほとんど会社の話になってしまった。

「せっかく来てくれたのにごめんね。ぜひシェムリを満喫してください」

 安木さんは詫びたが、シャオムは全然悪い気はしなかった。

 安木さんたちと別れて、シャオムとダダオはトラベラーズ・ホームへ向かった。シャオムは長旅の疲れをひとまず癒さねばならなかった。街の中心部は、まだまだ明るかった。

 

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