【連載小説】『シェムリアップ』~2日目(前編)~
2日目
翌朝はよく晴れた。シャオムにとって初めてのカンボジアの朝である。建物の間から南国の木々が背を伸ばしていた。真冬の日本から来たばかりのシャオムの体にはカンボジアの暑さがこたえていた。
「ここのパンはうまいよ」
ダダオが勧めるので、シャオムはここで朝食をとるのだと思ったが、買ったクロワッサンは昨日のカフェまで持ち運ばれ、結局そこのアイスコーヒーと合わせて朝食である。
「安いパンと安いコーヒー、イージーな朝食だね」
歴史的に見れば、コーヒーは上流階級の嗜好品だった。コーヒーやクロワッサンが庶民の手の届くようになったのは良いことだ。ただし、よそで買ったパンを持ち込んで食べるというのはばつが悪い。
二人がまたアマゾン・カフェにやってきた理由は二つである。第一に、ダダオがある調査を依頼していた人たちと待ち合わせるためである。ダダオはニューヨーク州にある大学院で都市の研究をしている。かねてからよく知っているシェムリアップの町で研究調査を行おうというわけである。
第二に、この日から二日間、ダダオとシャオムの大学時代の後輩であるケンが、シェムリアップに来ることになっていた。実はダダオとシャオムは、半年の間同じ寮の隣の部屋に住んでいた。そして、ケンはダダオの相部屋であった。ケンは大学を休学し、インターンをするためにプノンペンに滞在していた。シャオムがカンボジアにやってくる今回のタイミングに、バスでシェムリアップを訪ねてきたのである。
最初に到着したのはケンであった。シャオムにとっては2年ぶりの再会である。
「シャオムさん、ダダオさん、お久しぶりです!」
「ケン、よく来たな!」
縁とは不思議なもので、まさか3人がシェムリアップで再会を果たすとは、だれも想像していなかった。仲間は、シャオムが大学を通して得た最大の財産である。
「カープ、今年はダメっすよ」
ケンは中日が強くて、広島が弱かった時代のプロ野球をよく知っている。シャオムとは趣味が合うのだ。
「いやあ、今年はどこが優勝かわからないね」
ほどなくして、ダダオの調査員たちが続々と登場した。ダダオは大学からもらったリサーチ・ファンドで何名かの若い調査員を雇い、トゥクトゥクドライバーへのアンケートを行っていた。彼らはその回答をダダオに提出しに来たのである。 ダダオの調査に対する報酬は、現地のアルバイトの相場に照らすとかなり良かったらしく、みな嬉々として報告している。
シャオムにはシェムリアップの若者たちが、自由で楽観的に映った。日本もまだ経済が発展していたころは、若者に成長意欲が満ちていたかもしれない。シャオムが生きる今の日本は超高齢社会と呼ばれる。同年代の若者はみな優しいけれど、なにかギラギラしたものはもっていない。それが、シャオムが感じていたことであったし、シャオムもその穏やかな日本人の一人であった。
一行はカフェを後にし、オールド・マーケットを散策した。ここのマーケットは簡単に言うと、長方形の土地の外周に雑貨などの土産屋があり、中心部に食品市場がある。残りのエリアはすべてTシャツ屋がひしめきあっている。Tシャツには基本的に値札はついていない。シャオムは「Siem Reap」と書かれたTシャツを一枚買っていこうと思い、適当な店に入った。店員が5ドルと言ったので、ダダオが交渉して4ドルになった。
「お腹すきましたねえ」
早朝からバスに揺られてきたケンが空腹を訴えた。三人は、ダダオが「シェムリアップでビールが一番冷えている店」というレストランに入った。マーケットの中にある、クメール料理の店である。まだ正午にもなっておらず、客は他にはいない。野菜や焼き飯などの食べ物とアンコール・ビールを頼んだ。シェムリアップには、カンボジア最大のランドマークであるアンコールワットがある。「アンコール」とは、王の都を意味するそうだが、カンボジアでは何かとこの「アンコール」が多用される。昼間からキンキンのビールで乾杯し、ローカル料理を楽しんだ。
「どう?クメール料理、うまいだろ?」
ダダオが満足げに言った。
「休みはほんとにやることがないんで、今日はシェムリに来られてよかったですよ。プノンペンは何もないですからね」
ケンは普段プノンペンで退屈しているらしい。プノンペンを数回訪れたことがあるダダオが言った。
「あそこはあれがあるよ。ほら、虐殺のミュージアム」