「伝統芸能仮説」いくつか補足

どうもシャオムです。

前回「授業は伝統芸能である」仮説を書きましたが、なぜ伝統芸能なのかについて書ききれなかったので続きをやっていきたいと思います。

(前回の記事はこちらから↓)

honmadesukate.hatenablog.com

 

集団授業を単なる芸術ではなく「伝統芸能」といったのには理由があります。それは、授業という形式自体、これ以上発展していくものではなさそうだからです。

生徒の学習効率を高める授業の方法については、ずっと議論されてきています。グループワークだとか創造的な活動だとか。しかし、これらはすべて学校という枠から出ることはできません。授業の中で教師ができるパフォーマンスには限界があり、授業の「技」とか「型」はもう出尽くしていると思うのです。

 

それに比べて、子供が「感動」に触れられる機会は増えています。前回紹介した探求学舎さんのような塾、自然体験活動ができる場所、科学や数学に関する映像などなど。

つまり、子供の主体性の源となる「感動」の経験は、学校の外にあふれています。情報化が起こる前、教師は子供にとって、知らないことを教えてくれる魅力的な存在だったかもしれません。情報化が起きた今、子供の学びを向上するための解決策は学校の中ではなく外にあります。

「学校性悪説」を唱えたイヴァン・イリッチは、学校が子供の教育を独占していると言いました(イリッチについてはまた後日書きます)。学校の授業を万能とみなすことにはすでに無理があります。それよりも、学校と経済・社会を接続し、子供の生活、経験、勉強をすべて学びの輪の中に取り込む仕組みが必要です(言うのは簡単ですが)。

 

まとめるとこんな感じ:

集団授業は子供が感動を共有できる1つの伝統的な場だったが、社会の変化に伴ってその絶対性はなくなり、多様化する学びの中の一部になっていく。

 

今回でひとまず、集団授業の話は終えようかなと思います。論理が適切だったかはわかりませんが、少しばかりのアイデアは、共有できたのではないかと思います。ではまた!

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