今年の仮説一覧

どうもシャオムです。

5月から毎日投稿し続けたこのブログも、12月で半年になりました。新しい年を迎える前に、今年書いた記事の中から、「仮説」をピックアップしてまとめておこうと思います。問いを立てて、「こうなんじゃないか」と考えたトピックについては、今後、確かめてみる必要があります。特に、教育に関する仮説は、実際に教育現場で働いてみて、答え合わせと考え方の修正をしなければと思っています。あとから振り返ってわかるように、今年の仮説を簡単にまとめてみます。

 

仮説1.個別指導はケアワークである

これは、ブログを再開してから最初に書いた記事です。個別指導塾で働いていた経験から、塾は勉強を教える場以上に、子どもの面倒を見る場としての価値があるのではないかという仮説でした。これは仕事を続けてきて、さらに確信していることです。今年のブログは、教育における「世話」や「ケア」に関する思考から出発しました。今まで書いた記事の原点はここにあり、この仮説がベースになっているといえます。

honmadesukate.hatenablog.com

 

仮説2.教師は守りの職業である

教師はプラスの価値を生み出す仕事ではなく、マイナスの価値を減らす仕事であるという考えです。それは、学校が、勉強を教えたり、社会で活躍する人間を育てたりする場というよりも、子どもを預かり、面倒を見る場としての役割が強いのではないかという考えに基づいています。学校や教師が持つ「世話」や「ケア」の役割について、ずっと考え続けてきた一年間であり、他の多くの記事でも、この考え方が一貫した一年になりました。

honmadesukate.hatenablog.com

 

3.集団授業は伝統芸能である

初期のころに書いた「伝統芸能仮説」です。学校教育の価値が「世話」や「ケア」であるとすると、学校の先生の勉強を教える能力(教科指導の力)は、授業という場と時間を使って子どもたちを魅了し、満足させるための技術であり、それは芸術家の持つ専門性と同じなのではないかという仮説です。学習において集団授業に限界があることは歴然であり、教育界では、新しい授業法が絶えず模索されています。変化に適応し、自らの授業をアップデートしていくことは重要なことですが、結局は授業は伝統芸能であり、その技を磨くことが、教師に現状求められていることなのではないかと思います。そして、学校が勉強する場ではなくなっていけば、教師の授業力の重要性は、相対的に下がっていくのではないでしょうか。

honmadesukate.hatenablog.com

 

 

4.いじめは被害者が苦痛を感じていなくてもいじめ

ここから少し細かいテーマになります。教育においては、いじめは「被害者が苦痛を感じているもの」と定義されますが、客観的に見て人権を侵害するような行為や被害者が苦痛を感じてもおかしくないと思われる行為は、いじめとみなし、やめさせるべきであるという仮説です。仮に被害者がいじめられていると思っていなかったとしても、「これは人にしてはいけないことである」ということを被害者にも加害者にもわからせることが重要ではないでしょうか。

honmadesukate.hatenablog.com

 

5.学校で市民教育はできない

 市民教育とは、市民として、社会に貢献する態度を育むための教育ということができます。狭い意味では、主権者としての役割を自覚し、政治について考え行動していく姿勢を育てることともいえるでしょう。しかし、学校の仕組みでは、子どもたちが主体的に物事を決めたり、自分の学習内容や活動を選んだりする機会が少なく、教師の指示を守り、学校が定めるルールの範囲内で行動することが求められます。このような仕組みの中で、組織の一員としての奉仕性や主体的に権利を行使する態度を養うことは、かなり難しいのではないかという仮説です。

honmadesukate.hatenablog.com

 

f:id:honmadesukate:20200710151723j:plain