集団授業は伝統芸能なのでは

どうもシャオムです。

先日、個別指導について少し書きましたが、今回は集団授業について考えてみたいと思います。現在新型コロナの影響で、僕が勤めている集団指導の方は休校になっていますが、これまでの経験の中で立てた一つの「仮説」があります。

それは、「集団授業は伝統芸能である」という説です。

授業は芸術だなんていう言葉は聞いたことがありますが、これは教師の自己満足みたいな意味で批判されることもあります。今回、それをあえて伝統芸能にたとえてみたいと思います。

 

 

1.アクティブラーニングの流行

学校教育で、主体的な学びが謳われるようになってから久しいです。講義形式の授業が何かと揶揄され、グループワークなど生徒主体の授業形式が支持されることが多い印象を受けます。主体的な学びやそれを促すための授業方式を広くアクティブラーニングといいます。学校では長年、いかに主体的な学びを実現するかという問題が大きなテーマになっていると思います。

2.集団塾の「強み」と「脅威」

一方、塾はどうかというと、依然として講義形式が主流になっています。これは、塾の目的が、学力アップや受験合格に絞られていることによります。各授業での学習の内容を担保し、保護者に「学習させている」ことを証明するには、自由度の高い授業形態は不向きです。塾が売っているのは、講師による「精度の高いレクチャー」であり、「主体的な学びの促し」ではありません。

そんな従来からの集団塾の脅威となっているのが、動画配信サービスです。オンライン授業の業界規模はまだまだ大きくなっていくでしょうし、さらに教育系Youtuberが有料サービスにとって代わるようになってきています。子供たちは、やる気さえあれば自分で動画を見て勉強できる環境に変わってきています。この意味でも、前回述べたように、対面教育の「指導」の相対的価値は下がり、「ケア」の側面の価値が高まってきています。もっとも、動画サービスが本当に塾を脅かしているかどうかについては、塾業界の業績や、学び手の行動様式の変化を追っていかなければなりません。

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3.集団授業を「伝統芸能」と呼ぶ理由

前項で書いた通り、集団授業において「うまく教えられているか」や「子供が実際に理解できているか」ということの重要性は、以前ほどではなくなっています。学校はビジネス的な価値に左右されることはありませんが、子供たちの中での「動画の方がわかりやすい」という雰囲気は、学校にとって必ず脅威となります。

では、集団授業が提供できる価値は何か。それは、「学び手に感動を与えること」です。

アクティブラーニングを実現しようといったところで、すぐにできるものではありません。子供に主体的に学ばせようと大人が思っても、子供は思い通りに動くものではないからです。子供が主体的に学ぶには、その前段階として、対象に興味をもたなければなりません。子供が数学を主体的に学ぶようになるには、数学に興味を持つしかないのです。

受験勉強を教えない塾として有名な、探究学舎の宝槻泰伸さんは、次のように述べています。

ぼくたちの授業に子どもがめちゃくちゃ興味を示すのはなぜかというと、「驚きと感動」があるからなんです。

(中略)

心が動いて自分で動くようになれば、家に帰ったあと、子どもは自分で学んだことを自分なりに追究していくようになります。宿題を出さなくとも、調べたことを長大な巻物にまとめて書いてきたり、専門的な本を買ってもらって読んだり。心が動き始めると、自然にそんなことをやるようになります。

 集団授業の目的を「感動を与えること」と捉えると、教師の役割は明確になります。「解説のうまさ」が大事なのことは変わりませんが、もっとも重要なのは「いかに引き付けるか」「いかにあっと驚かせるか」「いかに楽しませるか」になってきます。

これは、演劇や音楽と同じ仕組みです。映像で見るよりも、実際に劇場で見る舞台の方が感動があります。圧倒的な舞台を見て感動した観客は、舞台や、俳優や、音楽や、踊りに興味を持つでしょう。

僕は集団授業をし始めたころ、やはり「どううまく説明するか」にこだわっていました。でも考えてみれば、それは生徒のお母さんやお父さんでも説明できることです。塾にしか提供できない価値があるとすれば、それは「生徒を引き付けること」です。何も「数学の奥深さってすごい!」とか思わせる必要はありません。セリフに抑揚を出す、表情にメリハリをつける、間(ま)を効果的に使う、発問するタイミングを工夫する、板書をおしゃれに書く・・・など、これらはすべて子供を引き付けるための技術です。そしてこれらは、昔から教師が磨いてきた技術だと思います。これらの伝統的な技術の価値を見直す必要があります。これが、僕が「授業は伝統芸能である」という理由です。

4.アクティブラーニングはどうなるか?

今まで述べたように、伝統芸能としての授業は、言うまでもなく子供の主体性を導くためのものです。しかし、「伝統芸能」は授業形態として、昔ながらの教師本位のやり方なのではないか、というちょっとした矛盾がおこります。

もちろん、生徒が議論に参加するような授業も含めて、観客参加型の芸術です。限られた時間と場所で、いかに観客を満足させるかという点において参加型の授業も芸術であるといえます。

しかしよく考えてみれば、舞台を見に来るお客さんは、舞台を見ようと思って劇場に来ます。毎朝自動的に学校に授業を受けに来る子供とは、この時点で主体性に差があります。つまりこの矛盾はもっと深いところにあって、本来「学びたい」という希望からスタートするはずの学びと、教育を効率化しようとする学校の仕組みがマッチしていないところにあるのです。

学校の役割のうち「ケア」の側面が増大する中で、学びの質をどうしていくかは大きな問題です。そんな中、「授業をどうするか」に対する今の僕の考えは「芸と割り切って演じる」になるということです。学校と塾を分けて議論する必要もあるでしょうし、この「伝統芸能仮説」にはまだまだ限界があると思います。とはいっても、今の教育の流れの中で、伝統的な授業本来の価値が見直されることは、有意義なのではないでしょうか。

 

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