学校で「評価」が細かくなる時代

どうもシャオムです。

教育実習中に、研究授業というものがあります。ざっくり言うと、授業の計画みたいなものを丁寧に書いて、授業をほかの先生方に公開するものです。今回は、研究授業の準備をしている中で感じた、学校現場の「評価」に対する厳しさの話をしようと思います。

研究授業の指導案(授業の計画)にはさまざまな項目があり、その中に「評価規準」というものがあります。これは、この授業の成果をどこで評価するのかということです。僕の受けた印象では、この評価規準に対する考え方がかなりシビアな先生が多いです。僕が中学生のころは、自分の成績が何で評価されているかといえば、提出物と定期テストくらいのものだと思っていました。しかし本当は、授業のどの場面で何ができればA、何ができればBというように、かなり細かい評価規準があるのでした。もちろん、普段の授業ですべての先生が事細かに評価をつけているわけではありませんが、本来の評価の仕方というのは僕が思っていたよりも緻密なものでした。

今回の実習で、これほど評価に対する厳しさを実感したのは、僕が行っている学校が全体として評価に関して意識が高いからかもしれません。しかし、いずれにしても、評価の仕方はどの学校でも多様化していて、テスト一発勝負の評価から、多面的な評価への転換が求められてきています。きっと、大学入試でポートフォリオ評価が導入されることが大きな要因かと思いますが、評価の仕方に対して厳しくなっている人は教育界に増えてきているようです。教師目線でいえば、今までシンプルに評価していたものが複雑化するわけなので、より仕事が大変になります。子ども目線でいえば、テスト以外の頑張りを評価してもらえるチャンスが広がる一方で、評価の機会や規準が多ければ何を頑張ればいいのかわかりにくくなることも考えられます。どのように考えても、評価方法の多様化は、学校に何かしらの変化をもたらすことでしょう。

僕が評価にあまり興味がないのは、評価が学校や社会の仕組みに大きく依存したものだからです。子どもたちの勉強に対して一定の評価を下さなければいけない理由は、進学したり就職したりする段階で、何からしら学校でのパフォーマンスを証明するものが必要だからです。そうでなくても、学校が評価規準や目標を定めるのは、みんなが学習するべき内容の到達点を子どもたちに提示するためです。この意味でも、評価は、ある一定のことを全員に学ばせるためのものとして機能しています。それはあまり、子ども自身の中にある好奇心とか学ぼうという意志の部分に関係のないことです。つまり、僕からすれば、評価というものは、学びにとってあまり本質的ではないのです。

今回は、学校での「評価」についてお話しました。次回、評価するとは何を意味するのかをもう少し考えてみたいと思います。

f:id:honmadesukate:20200710151723j:plain