「評価する」は何を意味するか

どうもシャオムです。

前回の記事で、学校が評価に対してシビアになっていることについて書きました。今回は、そもそも評価をするということが何に影響を与えるかを改めて考えてみたいと思います。

学校での評価というのは、絶対評価相対評価に分かれます。絶対評価は一定の評価規準を達成できているかどうかによって評価をつける方法であり、相対評価は全体の中でどのくらいの位置にいるかによって成績をつける方法といえるでしょう。前回の学校教育の流れからいえば、今は絶対評価の方向へ向かっているのではないかと思います。学年でどの位置にいるかよりも、一定の基準を満たしているかどうかが重視されるということです。大学入試で導入されようとしているポートフォリオ評価は、本来なら一つの絶対評価です。その人の経験や能力が他の人と比べられることなく評価されるからです。それが入試となると、そこから選抜を行わないといけないので、点数をつける必要はでてくるかもしれません。

しかし、絶対評価にしても相対評価にしても、客観的な評価であることに変わりありません。教師が「この子は良い生徒だと思うと言って主観的に評価されるということは、基本的には数値上は起こりません。ということは、学校で何かしらの評価をする以上、それは客観的なものであるということです。

客観的な評価にはどんな機能があるでしょうか。まず、客観的な評価のベースには、「これぐらいができるべきである」や「これができたらすごい」といったような、一般的な基準というのが存在します。評価される側はそういった基準を満たすことを求められるので、自然とそのような基準に合わせようという力が働きます。たとえば、「話をよく聴いている子を評価する」という評価の基準は、当たり前ですが、より子どもたちを話を聴くように仕向けます。この意味では、評価するということは、子どもをしつける学校という場では本質的な役割を果たす機能であるといえます。

また、評価は、人々に自分の能力や得意不得意を認識させる機能を持ちます。数学でAを取った生徒は、自分は数学が得意だと認識し、ますます数学を頑張る可能性が高いということです。逆に言うと、評価するということは、それだけ劣等者に対してますます劣等感を抱かせるというリスクをはらんでいます。評価の基準を増やせば増やすほど、どんな子もどこかで良い評価が得られる可能性は高くなりますが、自分の意思ではなく周りからの評価がモチベーションとなる可能性も高くなります。つまり、評価の方法を多様化することは、ある意味では子どもたちの自己肯定感を高める効果があるかもしれませんが、依然としてそれは外面的なものであり、「これがやりたい」「これにわくわくする」という子どもの内面から出るモチベーションではありません。

評価の機能について少し考えてみましたが、いかがだったでしょうか。今回の話は、学校の成績だけでなく、社会の中のあらゆる評価に対して言えることだと思います。自分が評価したりされたりするときには、こういった影響に思考をめぐらすことができればいいのではないでしょうか。

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