教師に依存した学習の構造

どうもシャオムです。

前々回の記事でお話した、塾での出来事について、今回も少し考えていきたいと思います。

簡単にまとめると、僕の授業を受けた生徒が僕の授業を嫌い、担当を交代させられてしまったという話です。今回の場合、その子はもともと算数が苦手ということでしたが、僕の授業を受けて余計に算数が嫌になったという可能性は十分あります。皆さんも経験があるかもしれませんが、良い先生に教わればその教科が好きになり、悪い先生に教わればその教科が嫌いになるということは、けっこうあります。

教師としては、だからこそ自分の授業に磨きをかけなければいけませんし、生徒からしたら、勉強を好きになるためにも、良い先生に学びたいと思うでしょう。

ただ、「悪い先生に教わればその教科が嫌いになる」というのは、よく考えると構造上の重大な問題です。これは言い換えると、学習の成功が教師一人に依存しているということです。これは、実際にかなり起きている現象だと思います。たとえば、中学2年の英語の担当の先生が嫌いだったとします。もしその先生が原因で英語が嫌いになってしまったら、本当にその子は英語が嫌いなままで、将来の学習に悪影響が及びます。「中学のときの先生が嫌いでこの教科は苦手」などと言う人は、実際にかなりいるのです。

しかし、本来学ぶのは自分自身なのですから、たまたま担当になった一人の教師のせいで、学習が嫌いになるということは、ある意味奇妙なことです。裏を返せば、教師に期待しすぎなのです。

では、なぜ生徒は教師にそこまで期待をしているかを考えましょう。それはやはり、高校までの学習がかなり受動的なものであることが原因でしょう。多くの子どもにとって、勉強とは、学ぶべきものが決められてあって、それは先生が教えてくれるものという認識があります。別にやりたくはないけれども、やるべきとされているからやっている。ならば、それを教える先生はちゃんと教えてくれるべきだ。という考え方に、子どもはなるわけです。

これは、子どもからすれば真っ当な論理です。しかし、構造上問題があることは明らかです。子どもの学習に焦点を当てて考えるならば、それが教師一人に依存しているのは望ましいことではありません。教師はあくまでサポーターであり、学ぶのは子ども自身という前提がなくてはなりません。学校教育、そして学歴社会の仕組みの中では、このような学習の構造を転換するのは難しいでしょう。まずは私たちが、この構造上の問題を認識したうえで、教育を行なっていくことが必要だと思います。

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