書き手から見た「文章の偏り」

どうもシャオムです。

毎日ブログを書くようになって気づいたことはいろいろあるのですが、1つの大きな発見は、書く側の心理を理解できるようになったことです。本、ニュース、SNSなど、日々さまざまな情報に接する上で、書く側の気持ちを理解することは重要なのだとわかりました。「書く側の気持ち」とは、具体的にはどんなことでしょうか。

記事を書くにあたって(もっと本質的には議論をするにあたって)、私たちが無意識に行なっていることは、情報をストーリーに沿うように組み立てるということです。たとえば、昨日僕が書いた『流行には「反動」がある』という記事を例にさせていただきます。

https://honmadesukate.hatenablog.com/entry/2020/10/22/170640

この記事の冒頭で、僕は「散歩していたら公園で少年たちが野球をしていた」というエピソードを述べます。そして、「僕が子どもの頃も野球をしていた」が、「何年か前までその公園で子どもたちが野球をしている姿を見なかったが、最近また野球少年たちが帰ってきた」と言っています。その体験から、「流行は1回終わった後、また戻ってくる」という仮説を議論したのです。

ここで筆者である僕がやっているのは、「公園で野球少年を見た」という体験を、記事の趣旨に合うように加工しているということです。もちろん、僕の体験は真実ですし、そこから「反動」について考えたことも本当です。ただし、「子どもの頃野球していた」、「何年か前まで野球少年はいなかった」、「最近また野球少年を見るようになった」という3つの情報は、完全に主観的なものであり、話を進めやすいように使われています。要するに、公園での体験は、事実を正確に伝えるために使われているのではなく、自分の議論をスムーズに進めるために使われているということです。情報そのものに偏りがあるのではなく、使われ方に偏りがあるので、読む側は自然と筆者の視点に寄っていくことになります。もしもこの記事を批判的な目で読んでいなければ、「一時期野球少年を見なかったのは、筆者の気のせいではなかろうか」などといったフラットな視点が抜け落ちることになります。

もちろん、僕の記事は何かを論証するためのものではなく、「もしかしたらこういうこともあるんじゃないか?」程度の意見などで、例に出す内容も日常で見たものや聞いたものであることが多いです。しかし、これが明確に読み手を説得したり、世間に何かを提案したりしようとする文章の場合、そこで使われる情報には、もっとシビアな正確性が要求されます。だから学術的な文章には、徹底した文献の参照法などがあります。このような「本格的な」文章を読む場合には、参考文献にもあたって、筆者の議論が偏っていないかを自分で点検してみることが、大きな意味を持ちます。

以上、書き手の情報の偏りについて、簡単に考えてみました。読むリテラシーを高めるためには、実際に書くことによって、書き手の立場を経験するのが有効なのかもしれません。

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