会話の起点になってくれる人の価値

どうもシャオムです。

人とのコミュニケーションが思い通りにいかないことは、けっこうあります。以前、「コミュ力至上主義」の記事でも書いたように、コミュニケーション能力があるかないかで、社会での生きやすさ、評価のされやすさが大きく違います。今回は、1対1のコミュニケーションではなく、3人以上がいる場でのコミュニケーションについて考えてみたいと思います。

僕が日ごろ、3人以上で会話をしなければいけない場面というと、塾の控え室、合唱団の打ち合わせ、親戚の集まりなど、フォーマルなものもあればカジュアルなものもあります。

特に、あまり関係性ができていない状態での会話は、あまり発展しないことが多いです。もしもフォーマルな話し合いを仕切る立場にある場合、みんなが話しやすいような雰囲気を作る工夫をする人も多いと思います。趣旨からは逸れるかもしれませんが、クラス授業でも少しでも生徒が発言しやすいような発問や雰囲気づくりは一つの大きなテーマになっています。何人もの人がそこにいるにもかかわらず会話が弾まないと、ともすれば仕切る人の問題だと捉えられがちです。たしかに、話を回すのがうまい人や底抜けに明るい人がリーダー役として、会話をリードしてくれれば特に問題はないでしょう。

しかし、実際に日ごろの会話を思い返してみると、会話が弾むかどうかを決定しているのは、仕切り役の力量ではなく、何もないところから会話を生んでくれる人がいるかどうかです。たとえば、職場の控え室で5人くらいが休憩しているとします。人によっては、何も会話がないととても気まずいと感じるかもしれません。こういうとき、なんでもいいので「みんな最近何してるの?」などと発言する人がいればよいのです。そのテーマが面白いかどうかはあまり重要ではありません。面白ければみんなの会話が弾むでしょうし、面白くなかったとしてもその人は「つまらない話をし始める人」としての役割を果たしたことになります。もしかしたらつまらない話をし始めたことによって、「その話別にどうでもいいわ」と言う人がいるかもしれません。また、つまらない話をしたことによって、その後の話の面白さが引き立つかもしれません。要するに、なんでもいいから何かを話し始めてくれる人というのは、それだけで超貴重な人材なのです。

学校の授業でもそうです。教師は授業を盛り上げるための仕掛けをすることはできますが、盛り上がりの起点になることはなかなかできません。授業が盛り上がるきっかけになるのは、だれかがおかしな発言をしたときです。予定調和的な授業の流れを邪魔するような何かが起こったとき、生徒は違和感を感じ、その対象に興味を持ちます。おかしな発言をした生徒に対しての返し方は、突っ込んでもよいし、発言を拾って膨らませてもよいし、教師の腕によるものでしょう。要は生徒の言ったことが、不適切な発言になるのではなく、授業において何かしらの価値を持つような活かし方をすればよいのです。それもこれも、最初に発言する人がいて始めて展開することです。

話の本筋に関係のないことを言う人は、ネガティブに評価されていることも多いです。しかし、私たちは集団でのコミュニケーションにおいて、彼らに大いに助けられていることを認識するべきです。「最初に発言する人」は客観的に見れば、発言がまたを外すリスクを冒しているのです。それが的を外したとしても、彼らは自らを犠牲にして、場のコミュニケーションを作っていると捉えられます。今日もみんなの会話を作ってくれている皆さんに、感謝申し上げます。

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