市民教育の出発点=「権利は行使してこそ権利」の発想

どうもシャオムです。

以前、市民教育について少し書きました。そこでは、学校の仕組みでは、主権者としての資質を育成するのは難しいという仮説を立てました。今回は、市民教育といっても具体的に何を学ぶべきなのかに焦点を当て、その核となる考え方を探っていきましょう。

市民教育とは、文字通り、社会を形成する市民を育成するための教育ということができますが、掘り下げて考えるためには、そもそも市民とは何かについて共通認識を持っておく必要があります。「市民」の定義に関しては、細かい学説がいろいろあると思いますが、ここではざっくりと「主体的に社会を形成する人」ということにしましょう。「主体性」というのが一つのポイントです。

そこで、市民たる者は、主体性をもって何をするべきなのかというのが問題になります。社会を形成するといっても、働くということがそれにあたるかもしれませんし、地域コミュニティに参加することがそうかもしれません。実際、社会を形成するしかたというのはいろいろあるわけです。ただ、市民教育といった場合、それはたいてい、政治に主体的に参加することを目指したものと捉えられます。どうやって政治を自分ごとと考え、政治を通して社会に関わっていく人間を育てるか。それが、市民教育の一つの焦点といえるでしょう。この意味では、「市民」は「主権者」と言い換えることができます。

さて、主権者という観点に話を絞った場合、主権者がとるべき主体的な行動とはどんなものでしょうか。政治への積極的な関与とはどんな行動をいうのでしょうか。それは、主権者という言葉そのものの意味を考えると、少し見えてきます。主権者とは、国民主権憲法の下で、権利を持っている者という意味です。つまり、主権者としての一つの行動とは、「権利を行使する」ということです。

一般的には、権利というと、教育を受ける権利があるとか、自由に表現をする権利があるとか、いずれにしても権利が「保障されているもの」というイメージがあるのではないでしょうか。しかし、現実には、そういった人々の権利を脅かすものは多く存在しているわけです。国家が腐敗すれば、国民の権利を保障するべき国家自体が、その権利を奪うということもあります。要するに、権利は積極的に行使して初めて意味を持つものであり、また確実に守られるものなのです。

「権利は行使してこそ権利」との考え方に照らしてみると、教育を受ける権利とは、自ら積極的に教育を受けようとする態度であり、表現の自由とは、自らの考えを進んで表現することです。選挙の投票権は、投票してこその権利であり、信教の自由は何かを信じてこその自由ということになります。このように、権利というものが、ただみんなに与えられて守られるべきものであるというだけでなく、主権者である個々人が積極的に行使していくべきものであるという視座に立つことこそ、主権者に要請される資質であるといえます。市民教育や主権者教育は、この「権利を行使する」重要性を学ぶところからスタートするのではないでしょうか。

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