働き方改革は仕組み改革

どうもシャオムです。

働き方改革という言葉がいつから使われるようになったのかよくわかりませんが、それは一時の流行りではなく、まだまだ日本が取り組んでいかなければならない課題です。新型コロナの流行は、都市の一極集中を少し和らげ、働く「場所」を多様にしました。そして、全員が同じ場所で仕事をしなくてもよくなると、働く「時間」もある程度自由になります。また、今まで対面で行っていた会議や連絡など、さまざまなコミュニケーションがオンラインで済まされるようになりました。これらの点では、コロナの流行は、働き方改革を後押ししたといえるかもしれません。

働き方改革というときに、多くの場合それが意味するのは、労働時間の短縮ではないでしょうか。残業を減らしたり、出勤する日数を減らしたりするということです。日本は海外に比べると、夜間や土日に働いている人が多い国です。24時間開いているお店などを見ればわかることです。それとともに、「過労死」という言葉に代表されるように、一部の人々に過酷な労働を課してしまう構造が存在しています。このような問題が取り上げられるたびに、労働時間の長すぎない仕事が好まれるようになってきます。

教師を志望する学生が減ってきていますが、それもその一つの表れかもしれません。教師は残業代が出ないので、おそらく労働時間という観点で見ると、かなり大変な職業です。働き方改革の流れの中では、長時間働かねばならない教師という職業が避けられるのも無理はありません。

このような風潮を受けて、教師の労働時間を短くしようという動きが生まれます。たとえば早く退勤する曜日を定めたり、学校の終業時間を早めたりする取り組みがあります。また、部活動を外部に委託するなど、教師の仕事の一部を減らすということも考えられます。

しかし、この問題は、単に仕事を減らしたり、労働時間を減らしたりすることでは解決しないでしょう。そもそも、教師の労働時間が長い理由は、働く一人一人が感じているやりがいや使命感によるところが大きいはずです。教師は子どもたちの人生の基礎となる勉強を教えることに加えて、人格的な成長を促していく仕事です。そんな仕事に区切りはなかなかつけられず、ときにはいつまで経っても終わらないということもあるでしょう。こんな状態で、さあ働き方改革だから早く仕事を終わりましょうと言っても難しいのではないでしょうか。

では、教師の長時間労働という負担を軽減するためにはどうすればよいのか。それは、働く側の意識によって解決する問題ではありません。要するに「働き方」を変えるのは不可能だということです。変えなければならないのは、教師に負担がかかりすぎている学校教育の仕組みです。教師は「なんでも屋」と言われることがありますが、それが過酷すぎるなら、なんでも屋であるべきではないでしょう。たとえば、勉強だけを教える人、生活指導だけをする人、部活動だけを指導する人、教師や保護者などの連携役だけをする人など、役割を明確に分けることが考えられます。おそらく、なぜこれができないかというと、教育公務員に割り当てられる人件費が、そんなに多くの教師を雇うことを許さないからではないかと思います。仮に財政的に可能だったとしても、このように教育を細分化して子どもを育てる仕組みは全然確立されておらず、どうやってよいかわかりません。もちろん、1人の教師が勉強から生活指導、部活まですべてを教えた方が良いという面もあります。要は、学校教育というのは、教師に負担のかかる仕組みになっているのです。

教師の仕事が大変すぎるのではないかという意見が出るのは、良いことのように思います。社会が教育に対して寛容になり、そして社会全体で教育をサポートしていこうという流れは絶対に必要なことです。しかし、働く時間や仕事量というような、表面的なこと(数値で測れるもの)にとらわれ、仕組みを変えることを忘れると、ただ楽をしようとする教師が出るなど、教育の質を大きく下げることにつながります。どうやって子どもを育てるかこそ至上命題なのですから、その一点を見失わず、そのための働き方改革であり仕組み改革であるということを、社会も、そして教師自身も認識するべきだと思います。

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