学校と市民教育は相性が悪い

どうもシャオムです。

前回の記事で、日本の民主主義の特徴として、「お上」が言うことを守ること、そしてお上に指示を仰ぎたがることを上げ、その問題点を指摘しました。今回は、そのような指示をほしがる性質(悪い言い方ではありますが)の原因を、あえて学校教育に求め、考えてみたいと思います。

市民教育や、主権者としての教育は、学校教育の中でもよく話題になるテーマです。とはいえ、人権、防災、平和、キャリアなどの分野に比べると、ちょっと味が薄いというか、学校では触れるけれどもあまり突っ込まないような感じがしています。それは僕の中では、教育公務員の「政治的中立性」のきまりがあるおかげで、教師が政治について話しにくいという事情があるせいだと思っています。教員は政治的活動が制限されているほか、現場で特定の政治的立場をとるような発言をしてはいけないことになっています。これはあくまで「中立」を求めるためのきまりであって、教員が政治について語ること自体を禁止するものではありません。そうはいっても、学校という仕組みの都合もあって、教員からすると、下手なことを言うくらいなら何も言わない方がいいという判断が先行してしまい、主権者教育にも首を突っ込めないでいるような気がします。本来であれば、学校で、市民として必要な資質を身に付けるための教育がもっと行われるべきだと思うのですが、こういう事情などもあって、市民教育は、いまいちぼやけています。

教員の政治的中立性にしてもそうなのですが、学校という仕組みそのものが、市民を育成することに適していないのではないでしょうか。民主主義では国民が主権者であり、それは憲法の保障するところです。国民一人ひとりが、権利を行使してこそ、健全な民主主義が維持されるということになっています。権利を行使する上で重要なのは、民主の「主」からも、主権者の「主」からも読み取れるように、「主体性」という点です。

しかし、学校という仕組みは、根本的に、主体性を殺すようにできています。学校では、毎日決まった時間に、決まった場所で、また決まった席について勉強をしなければなりません。勉強する内容も、目指すところもしっかり決められています。子どもたちは、ルールを守ることはもっとも重要なことだと教わります。そのせいで、ルールを守ることや、それに反してルールを破ることには敏感なのですが、一方、ルールを作ることや、ルールを変えることには、多くの場合無関心です。これでは、どれだけ市民教育の授業だといって、政治の重要性を学んだとしても、それは市民としての実力を身に付けることにはつながらないでしょう。市民としての主体性を獲得するためには、自分たちの希望を主張し、議論し、合意して、ルールを作ったり、よりよい組織を作っていく経験を積む必要があります。しかし、学校という仕組みでは、秩序を保つことこそ最優先事項であって、こんなに子どもたちに裁量を与えてしまっては不都合なのです。

今回は、市民を育てる教育に関して、学校の仕組みの面から考えてみました。議論自体は極端なものではありますが、このような現状の仕組みを理解せずして、民主主義を成長させることはできないでしょう。これは古今東西に通ずる永遠の問題なのではないかと思います。

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