学校と音楽教育も相性が悪い

どうもシャオムです。

前回は、学校ではその性質上、市民教育を行うのが難しいということを書きました。今回は、同じような角度で、学校で学ぶ音楽について考えいきたいと思います。

まずは音楽教育について話す前に、僕自身が音楽にどう接してきたかを振り返りたいと思います。僕は幼稚園くらいまでは、『おかあさんといっしょ』などの歌をよく歌っていて、音楽が好きな普通の子どもでした。しかし、親がピアノを習わせたり、合唱団に入れてくれたりしたものの、なぜか楽しくなく、ほとんど参加せずに辞めてしまいました。それよりも、小学校のときに始めたソフトボールが楽しく、どちらかというと野球少年へと変貌を遂げていきました。小学校の音楽の授業も大しておもしろくなく、しばらく音楽にまったく興味のない時代を過ごしました。しかし、ふとした思いつきで高校の合唱部に入って以降、少しずつ空白の時代を取り戻すように、音楽に親しんでいきました。今思うと、母親や中学校の音楽の先生は、僕が人よりも音楽が得意なことを認めてくれていました。それがきっと、僕が再び音楽を始めるきっかけになりました。

そんなわけで今は、ささやかに音楽をやっているのですが、学校の音楽の授業を思い返してみると、あまり楽しかった印象はありません。何よりも、みんなが全然声を出していないのに、自分だけが大きな声で歌うというのは、子どもにとって恥ずかしいことです。教師は、自分だけ大きな声で歌うのは恥ずかしいことではないと教えますが、学校という集団の環境は、その逆のことを子どもに教えます。要するに、目立たない方が得という論理です。

よく学校行事で、合唱をすることがあります。何はともあれ、みんなで声を合わせて歌うということは清々しいものです。しかし、あれは子どもたちに、一体何を教えているでしょうか。本来、合唱を通して学べるのは、音楽の楽しさや美しさであり、一つの目標は、豊かな心を身につけることです。具体的には、声がそろったこと、調和したこと、一つの曲が完成したことの喜びを分かち合うことが、価値ある学びではないかと思います。そのためには、一人ひとりが「さあ歌を歌おう」という気持ちを持っていることが大事になります。こういうと、みんながみんな音楽が好きではないのだから、そんなにみんなが積極的に取り組むのは難しいと言われます。しかし、それは本当に音楽が好きかどうかの問題でしょうか。

振り返ってみると、学校で行われる合唱練習で教えられるのは、人前でちゃんと立つことや、並ぶこと、より大きな声を出すこと、声をそろえることです。その本質はおそらく、みんなと合わせることであり、和を乱さないことです。これはかなり消極的なことです。一方、褒められることはといえば、昨日より声が出ているとか、見栄えが良いとか、そんなことです。これは、よく考えると、音楽ではなくても学校があらゆる場面で教えていることの延長です。つまり、音楽を学校の枠組みに当てはめただけであり、悪い言い方をすれば、音楽を教えるのではなく、音楽を使って集団行動を教えているにすぎません。これも一つの教育であることはたしかですが、本来あるべき姿なのかというと疑問です。学校という仕組みが、音楽を教えるのにマッチしていないことが、少しでもわかっていただけたのではないでしょうか。

庶民が音楽を楽しむということを考えたとき、音楽教育は重要な問題です。しかし、学校が根本的に音楽を教えるのに向いていないとすれば、それに代わる教育の方法を考えなくてはいけません。あるいは、学校の中でよりよく音楽を教える方法を考えていく必要があります。音楽を「広める」ということは大きな関心の一つなので、これからも考えていきたいと思います。

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