学校と実社会のズレは何か

どうもシャオムです。

塾で子どもたちと接していると、よく「何のために勉強するの?」という疑問があがります。大人として、この問題に対する答えを持っておくべきだとは思いますが、多くの人は、実際のところ、学校で習うことの多くは社会で役に立たないと思っているのではないでしょうか。勉強は大切だということについては多くの大人が口を揃えますが、じゃあなぜ数学や英語を勉強するのかと聞かれて子どもたちを納得させることは、かなり難しいことです。結局、いつもこの大人と子どもの間にある、勉強に対する認識の差という溝は、埋まらないままになってしまうことが多いです。今回は、どうすれば子どもたちを納得させることができるのかではなく、なぜこのような溝が生まれるのかを考えます。

僕が考えるに、子どもたちが勉強しなければならない理由に納得できない原因は、「学校の勉強が役に立つか」という点でしか議論しないことにあります。そもそも、「役に立つ」とは、実際の生活で活用できる知識やスキルということですから、大人になって英語や数学を使わない場合、学校の勉強は役に立たないのです。子どもたちからしてみれば、こんなに頑張ってやらなければならない勉強が「役に立たない」ということを認めるのは難しいことです。多くの子どもは役に立たないなんて言われるとたちまちやる気をなくすので、大人はあまり役に立たないとは言いません。でも、実際に子どもたちの周りにいる大人を見れば一目瞭然で、英語や数学が役に立たないことに気づいている子も多くいます。

この議論に欠けている視点は、そもそも学校という仕組みが、役に立つことを教える仕組みではないということです。勉強という枠を超えて考えてみましょう。学校では勉強以外にも、人の話を聞くときは私語を慎む、仲間と協力して何かを作る、いじめをしてはいけないなど、さまざまなことを学びます。これらはすべて、役に立つというより、身に付けていないと困る態度です。では、役に立つものとは何でしょうか。たとえば、お金を稼ぐ力やコミュニケーション能力などです。これらは、学校で学べるでしょうか?僕の答えは、学べるけど身に付かないです。お金の稼ぎ方は、実際にお金を稼がないと身に付きません。学校で何を教えようと、それが現実ではなく想像上の学びである以上、稼ぐ力は身に付きません。コミュニケーション能力は、学校生活を通して身に付いているという考え方もあります。しかし、見方によっては、学校で子どもたちは、コミュニケーションを学んでいるわけではありません。もともとコミュ力が高い子はうまく人と付き合い、低い子は低いままです。むしろ、学校は、個々人のコミュニケーション能力によらず無差別に子どもたちを関わらせる場所なので、学校でなければ起こるはずのない人間関係の問題が生じます。いじめなどはそうです。お金を稼ぐ力にしても、コミュニケーション能力にしても、「役に立つ」力というのは、実際にやってみて失敗するという経験がないと身に付かないものです。学校は、ある意味で守られた空間であり、別に子どもたちは稼がなくても、コミュニケーション能力がなくても、生きていくことができます。これは、現実とは違う異様な空間なのです。

こう考えると、学校でする勉強が役に立つはずがないことはわかると思います。「役に立つ」とは違う価値によって、子どもたちを学びへと導く必要があります。しかし、世の中のスタンダードが、まだまだ「役に立つ」を求める以上、「役に立たないことをなぜやらなければいけないんだ?」という子どもがいつまでも存在することになります。本当の意味で自由に自分らしく育つ子どもというのは、学校は役に立つことを学ぶ場ではないことを感覚的に察知し、人生で必要なことは自分の責任で学んでいける子どもです。

「何のために勉強するの?」と聞かれたとき、その子を納得させることが重要なのではありません。なぜなら、その子は、勉強が「役に立つ」という神話を信じているかもしれないからです。大人の役目は、その子を納得させることよりも、もっと広い心で、そして長い目で、その子が将来、勉強の「意味」を見出し、自分なりに学び続けていけるような関わりをしていくことではないでしょうか。それは理屈ではなく、その子を愛し、守るということ、そして何よりも、私たち自身が、勉強の「意味」を考えているということが何より大切だと思います。

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