コミュ力至上主義に待ったをかける

Aさんは人見知りですが成績優秀で物知り、Bさんは運動神経抜群ですが暗い性格、Cさんはコミュニケーション能力が高いですが勉強・スポーツともに平凡。ここで3つ問題です。

1.この3人の中で、友達になるとしたらだれですか。

2.あなたが企業の人事担当なら、この3人のうちだれを採用しますか。

3.この3人の中で、生きていくのに困らなそうなのはだれですか。

 

どうもシャオムです。今回はコミュ力至上主義に一石を投じるべくこんな思考実験からスタートしました。上の3問に対する僕の答えはすべてCさんです。Cさんが一番友達になったら楽しそうですし、一緒に働きやすそうですし、社会でうまく生きていきそうです。もちろん違う回答をした人もいるでしょうが、このテストから、社会はコミュニケーション能力の高い人が有利になるようにできているということがわかるのではないでしょうか。もちろん社会は人間どうしの関わり合いで成り立っているのですから、これは至極当然のことです。ただし、社会を豊かにしたり人間を幸せにしたりするのは、決してコミュニケーション能力だけでなく、体力、粘り強さ、愛情、イノベーションなどさまざまです。これらの能力をちゃんと社会が評価しないと、みんなコミュニケーションだけに偏ってくよ、というのが今回の話です。

塾で子どもと接していてよく話題になるのが「勉強して何の役に立つの?」という問題です。この問いは、社会の実態をとんでもなく鮮明に映し出します。たしかに価値基準を「役に立つかどうか」に限定すると、勉強の価値は何分の一にも小さくなってしまいます。子どもはすでに、「社会で必要なのはコミュニケーション能力だけど、勉強はそれに関係ない」ということをわかっています。勉強はもっと「生きる意味」とか「あるべき社会」とか「この世の法則」とか「美しさ」とか、そういう物事に関係があります。これらの重要性を認めない限り、子どもが勉強の意味を見出せないのは当然ですし、そんなことよりいかに友達とうまくやるかに神経を使うでしょう。

なんか社会がどんどんどんどん、コミュニケーション能力に偏ってきているような気がしています。もともと西洋式の社会の構造がコミュニケーションに大きく依存しているのかもしれませんが、それが日本に導入されて、さらに周りに合わすことや和を乱さないことが求められるようになったのではないでしょうか。あまりこのブログではこういうざっくりした言い方はしないのですが、なんか薄っぺらい人間ばっかりになりそ~という気がしてしょうがないです。もちろんコミュニケーションがうまいこと自体、素晴らしい価値ですから、それを数ある中の一つとして相対化できれば良いな、と思います。

f:id:honmadesukate:20200710151723j:plain