「未完成で出す」ことの意義

どうもシャオムです。

今回は、「未完成で出す」ことの意義について考えてみたいと思います。

学生のころなんかはよく、決められた期限までにレポートなどの課題を出さなければならないということがありました。小学校までは、毎日やるべき宿題が課されて、多くの子どもはそれをやりこなす習慣が身に付くものですが、中学くらいになると、自分で計画を立てて進めることが必要になります。計画を立てて課題をやるのが苦手な子どもは、かなり多くいます。大人でも、期限のギリギリにならないと手がつけられないという人は、多いのではないでしょうか。

計画を確実に実行できる人や、むしろ計画を立てなくてもタスクがこなせる人の特徴として、「妥協がうまい」ことがあげられます。計画実行が苦手な人によくあるのが、「丁寧にやりすぎる」ことです。丁寧さは、何より先方への誠意ということにつながるので、早さよりも何よりも大切な要素であることには違いありません。しかし、すべてのタスクを最初から丁寧にやっていくというのは、並大抵のことではありません。仕事が早い人や、要領が良いと言われる人は、それぞれのタスクを7割から8割の出来で完了していることも多いです。たとえば、提出しなければならないレポートが3本あるとします。これを1本目から10割のエネルギーで丁寧にやろうとすると、おそらく期限ギリギリになっても3本目が終わらないということになります。そうなるよりは、8割くらいの適当さでとりあえず3本書き終え、余った時間でやる気になればさらに編集するという考え方をとるのです。そうすれば、まず提出し損ねるというリスクはありません。そして、全体をもう一度見直す時間のゆとりも生まれます。よく「全部を丁寧にやらないと気が済まない」という人がいますが、その中には、全部を丁寧に終わらせられる人と、丁寧にやりすぎて終わらせられない人がいます。終わらせられないなら、ちょっと問題がありますね。

ブログを書き続けるにも、いろいろな方法があります。同じ労力を使ったとしても、しっかり参考文献を読んで内容のある記事を週3本書くこともできれば、毎日6割くらいのできの記事をあげるということもできます。僕にとっては、「しっかりした」記事を書くという作業はかなりエネルギーを使うものであり、たとえそれが週1回であっても、苦しいときがでてきます。一方、現状日々書いているような「ざっくりした」記事を毎日書くのは、そこまで大変ではありません。そういう理由で、僕はとりあえず毎日何かしらの記事をあげつつ、気が向いたときに本気の記事を書くというスタイルを続けています。ジャルジャルYouTubeに毎日コント動画をあげていますが、あれは完成したものではなく、これからコントを作るための「種」になるようなものをあげているわけです。僕のブログもまた、そのような、これからの思考のきっかけになるような、思いつきや発見を、文字に起こしてみるという性格が強いです。

「未完成で出す」ということは、悪く言えば妥協ですが、それは「試す」という側面を持っていますし、0か1かで言うと1といえます。どれだけ頑張ってなにかを作っても、それを発表しなければ0ですが、未完成でも出せば、それは何かになります。このような考え方が、役に立つときも、あるのではないでしょうか。

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