教師に統率力は必要か

どうもシャオムです。

学校や塾の先生たちの間で、子どもに「なめられる先生」と「なめられない先生」という話題がよくあがります。授業では集団をコントロールしなければいけないため、教師たるもの、なめられないようにすることが大事であるというのが大体の共通認識です。この、集団をコントロールする能力のことを、統率力と言うことにしましょう。僕はもともと、集団をコントロールするというのが、軍隊みたいで非常に抵抗を感じるので、本当にそんな能力が教師に必要なのかどうかを考えみたいと思います。

そもそも、教師がなめられてはいけないと言われるのは、教師としての威厳を保ち、子どもたちにとって「強い」存在であり続けるためであると思われます。もしなめられてしまえば、指示を出しても言うことを聞いてくれなくなったり、教室の秩序が乱れてしまいます。たしかに、学校教育を成り立たせるためには、教師がしっかりと場をコントロールし、子どもたちを「やるべきこと」に向かわせることが重要です。

裏を返せば、子どもたちは、言うことを聞かなければいけない先生と、聞かなくてもいい先生を判別しているということです。これを教師側から見てなめる/なめられると言っているのでしょう。なめられてしまえば、教師が何を言っても子どもたちに伝わらなくなりますから、どんな教師であっても、なめられるのは避けたいところです。

では、少し視点を変えて、教師が一定の威厳を持って場をコントロールすることが、子どもたちのためになるのかを考えてみましょう。学校で集団行動の仕方を身につけることは、子どもにとって重要な課題です。そのために、教師が厳しさを持って集団をコントロールするということは、大切なことのように思われます。

しかし、これは本当に子どもたちにとって重要な学びでしょうか。子どもたちは、「先生が話しているときは聞かなければならない」ということを学んでいるかのように見えますが、実は「どの先生の話は聞くべきで、どの先生の話は聞かなくてもよいかを察すること」を学んでいるのではないでしょうか。生徒は学校では、非常に受動的なモチベーションで行動しており、どうしたら楽しいかとか、どうしたらおもしろいかを考えているのではなく、どうしたら叱られないか、どうしたら悪目立ちしないかを考えて行動しています。叱られないことや悪目立ちしないことは、学校では大いに役立つ能力ですが、社会では、そこまで役には立ちません。むしろ、どう目立つかや、どう楽しむか、どう人を楽しませるかといったことの方が、大きな価値となります。

生徒がこのように受動的になっているのは、毎度毎度書いているように、学校の仕組みによるところが大きいと思います。学校の仕組みでは、教師は威厳を持つべき存在であり、生徒は教師に従うべきだからです。この仕組みの維持にとって、教師の統率力は要ですが、それ以上に価値はないのではないでしょうか。本来なら子どもたちは、教師にそこまで依存するべきではないはずです。シンプルなようで意外に複雑な話になってしまいました。引き続き、こういうテーマについては考えていこうと思います。

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