「役に立つ」という価値からの脱却

どうもシャオムです。

塾で、生徒から「勉強は何の役に立つの?」と質問されました。「何の役に立つから人それぞれであって、役に立たないこともいっぱいある」というのが僕の答えではありますが、この質問にどう答えるのかよりも、この質問が出る背景には、子どもたちは勉強というものをどう認識しているのか、ということの方が重要です。

実はこの質問は、よく聞かれる質問です。少し前から僕なりに考えていて、以前『学校と実社会のズレは何か』という記事でそれについて書きました。今回は、その記事と被る部分は大きいのですが、一年を終えるに当たって、もう一度確認し、考えを深めておこうと思います。

子どもが「勉強は何の役に立つ?」と質問する背景には、「勉強は何かの役に立つものである」という認識があります。おそらく、小学校のころから、勉強をするのは将来のためとか、将来役に立つからなどと言われてきていることが考えられます。

しかし、実際には、多くの大人にとって英語は役に立っていませんし、三角関数は役に立っていません。だから、勉強が将来役に立つというのは嘘です。本当は、子どもにもこれをわからせるべきだと思いますが、役に立たないとわかると、普通の子どもはやる気を失ってしまうので、大人は役に立たないとはあまり言いません。

仮に、子どもが勉強は役に立たないことを理解できたとしましょう。次に問題になるのは、「では、何のために勉強するのか」ということです。勉強が役には立たないとしても、多くの人にとって、何か意味を持っていることは確かでしょう。受験勉強が糧になったという人や、学校や塾での勉強を通して良い先生と出会うことができた人。

もちろん、これらのような価値は、勉強によって、あとになって結果的にもたらされた価値です。では、本来、何のために勉強するのでしょうか。僕にとっては、良き市民として生きるためであり、身の回りの問題を解決するためであり、自分らしく生きていくためです。あまり細かい言葉では説明できません。できたとしても、それをそのまま子どもたちに当てはめて、彼らを説得することはできません。勉強をするのは「自分にとって」何のためなのかを、それぞれが考えないことには答えが出ないものだからです。

子どもたちは、無意識に、「答えは最終的に先生が教えてくれるもの」と思っています。しかし、「子どもたち一人一人は何のために勉強するのか」という問いに対して、先生は答えを持っていません。だから、子どもたちにとって大事なのは、答えを与えてもらうことではなく、何のために学ぶのかを考え続けることです。その中で、自分にとっての勉強の意義が生まれるはずです。大人がまずすべきことは、「役に立つかどうか」という基準から子どもを解放してあげることであり、もっと広い視野で勉強というものを捉えられるよう助けてあげるべきではないでしょうか。

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