価値多元主義社会のモデル

どうもシャオムです。

箱根駅伝が行われている裏で、価値多元主義とか価値相対主義とかごちゃごちゃ言っておりました。2日間の記事を一言でまとめると、価値相対主義の問題は、互いの価値観に無関心であることにあり、異なる価値観を持つ人や集団と積極的に関わっていく価値多元主義の考え方が必要なのではないか、ということです。今回は、価値多元主義がなぜ必要なのかということを、もう少し考えていきたいと思います。

互いの価値観に無関心であることと、興味を持ち関わり合うことの差は、どこに表れるでしょうか。僕は、価値相対主義の記事で説明したような、「価値観なんて相対的なものだから、どれが良い、どれが正しいということはない」という考え方を、否定的に見ています。それは、人としてどう生きるべきかとか、どんな社会をつくっていくかという問題に対して無責任になるだけでなく、他の人たちの思想や信念を理解しようとする態度を失わせるものだと思うからです。

自分の考えが正しいと思うけれども、相手は別な考えを持っている。こういうとき、どちらがより正しいのかを戦わせることは、本来重要なことではないでしょうか。戦うというと、議論に勝つことにとらわれているようですが、そうではありません。多様な価値観が、議論を通して洗練され、全体として一定の価値観が「良いもの」また「正しい」ものとして共有されることが必要だと思います。政治学では、「共通善」と呼ばれるようなものです。それは、強国の論理や価値観が他を支配するような構造ではなく、積極的に相手の考えを知り、受け入れようとする寛容さと、全体のために正しい考え、良い考えを形成しようという意思にもとづく共通善です。

人の価値観を否定するべきではないという考えには、僕も賛成していますが、真理を求めることや、そのために議論したり、批判しあったりすることは必要だと思っています。その中で、それぞれの思想は洗練されていくものです。「干渉しない」ということばかりが優先され、何が正しいのか、何が真実なのかという問題が棚上げされることは、結局社会のあらゆる問題を、根本から解決せずに置いておくようなものではないでしょうか。以上が、僕の中にある、多元主義社会のイメージです。

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