「形式」の価値を考える

どうもシャオムです。

「形式」という言葉はしばしばネガティブな意味で使われます。それは、形式という言葉の中に、「中身が伴っていない」という意味が含まれていることが多いからでしょう。しかし、では形式はそもそも何のためにあるのかを考えてみましょう。
形式は、人が社会でつくりあげてきたさまざまなルールや習慣です。たとえば、授業をするときに「今日は○○を勉強します。テキストの何ページを開いてください」と言うのは、一つの形式です。このような形式がどんな機能をしているでしょうか。私たちは、このような授業の最初のあいさつを聞くと、「ああ、今から授業が始まるんだ」ということを無意識に理解しています。何度も同じような挨拶を聞いてきているので、それがリズムになっていて、心も体も授業に向かいやすくなっているといえます。このような形式的なコミュニケーションがあれば、授業をする側は、一から説明しなくても、生徒が授業に臨む空気を作ることができます。つまり、形式というのは、コミュニケーションを簡単にしたり、スムーズにしたりするものだということがわかるでしょう。
もしも、形式を踏み外せばどうなるでしょうか。形式から外れるということは、相手に違和感を与えるということになります。たとえば、相手にインパクトを与えたいときや、相手を引きつけたいとき、わざと形式を無視して意外な言動をする。これは、ポジティブな効果をもつ踏み外しです。しかし、コミュニケーションの大半は、形式通りにやっておいた方が良いものです。「おはようございます」と言うべきところで何か変なことを言えば、それはややネガティブに受け取られるでしょう。
このように、形式から逸れる言動というのは、相手に対する敬意や丁寧さを欠いたものとして受け取られます。極端に言うと「社会のルールに従っていない人」とみなされてしまうかもしれません。
前回の記事で書いた、僕の塾での体験は、形式を欠いたことによって起こった問題だといえます。生徒が、初めて教わる先生に期待している態度とは違った態度で接してしまったせいで、強い違和感を与えた可能性があります。「敬意や真心は形式ではない」という考え方は、もちろん正しいものですが、形式に従い、丁寧に振る舞うということを蔑ろにするべきではない。今回の出来事から学んだ一つの教訓でした。

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