わかりやすい授業はいらないのか(続き)
どうもシャオムです。
先日、「わかりやすい授業が価値を失う」というテーマで記事を書きました。
この記事を書いたあと、改めて授業の価値について友人のフランコ君と話していたのですが、なるほどなと思ったことがあったので、また記事を書こうと思います。
前回の記事は、授業のわかりやすさにおいてはYoutubeの方が上回るから、学校の授業がわかりやすいことに価値はなくなるよという話でした。今まで学校の授業のメインの価値だった「わかりやすさ」を否定したのですから、かなり極端な議論ではありました。
この記事に対してのフランコ君の意見はこうです。
Youtubeなど個人が自由に学習できる教材に誰もがアクセスできるようになった今、学校では集団だからこそできる授業の価値が高くなっている。
集団であることに価値を見出した、フランコ君の指摘は鋭いです。集団だからこそ学べることがあるというのは一見当たり前なのですが、実際の学校現場では、今でも教師から生徒へ一方通行の授業が多く行われているのです。やはり、一定の知識を教えないと受験に対応できないという事情があります。グループ学習などの、集団ならではの授業が好きではない生徒も保護者も多いのです。
ただ、やはり学校という仕組みを考えれば考えるほど、その最大の特徴は、集団であることにあります。「同窓会論」という記事でも書きましたが、学校は子どもが無差別に集められる場所です。学校がなければ出会わなかったであろう人たちとの出会いがそこにはあります。友情とか人脈というのは、絶対に見落としてはいけない価値なので、学校の持つ、この「人を出会わせる」という機能は重要です。
学校のような集団を他の場所で実現させようとするのは、かなり難しいのではないかと思います。授業の面においても、この特殊な集団を活かしたものに価値が生まれてくるでしょう。
前回僕が書いた、「わかりやすさに価値はない」ということも、考え直す必要があります。周りに生徒がいることによって、学習内容の理解がより深まれば、学校でしか生まれない「わかりやすさ」が存在することになります。学校が、集団だからこそよりわかりやすい授業をすることができれば、「わかりやすさ」は依然として価値を持ちます。
このように、学校の授業の価値を考えるうえでは、集団であることが大きな意味を持つことに気づきました。逆に、多様化する子どもたちを互いに引き離し、「自分と他人は関係ない」という態度が育まれてしまえば、学校の存在意義は薄れていってしまうのではないでしょうか。
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