「宗教」を広い意味で考える

どうもシャオムです。

日本人のうちで、いったい何割の人が宗教をやっているのか。それは世界の中では、少ない方なのか。こうした疑問がときどき話題に上がることがあります。もちろん何かの宗教団体に所属しているかどうか、統計を取ることはできるわけであって、それは実際に行われています。しかし、団体に所属していれば本当に信仰をしているかと言われれば、必ずしもそうではありません。反対に、私たちは、何らかの団体に所属しなければ宗教をできないのでしょうか。今回は、これらの事柄について少し考えてみたいと思います。

いま、宗教の名前をいくつかあげてみましょう。イスラム教、ユダヤ教キリスト教ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教。これらにはさらに細かい系統があり、また他のさまざまな宗教もあります。あげはじめればきりがなく、また絶えず新しいものが生まれ、いつ生まれたのかもはっきりわからないというものでしょう。

こういった宗教は、そもそも何のために生まれるでしょうか。宗教の存在意義は壮大な問題ですが、端的にまとめてみましょう。まず、宗教団体としてみるならば、それは人々を救うということが目的にあるでしょう。それぞれの宗教が、社会になんらかの矛盾や取り除かなければならない問題を見出していて、それに対するアプローチを説いているのではないでしょうか。また、信仰する側から見れば、宗教は自分が救われることや幸せになること、心の平穏や充実感を得ることが目的になっているのではないでしょうか。

宗教について一般的な見方を確認したところで、次に「宗教をやっている人とやっていない人を隔てるものは何か」を考えてみましょう。先ほども述べたように、宗教団体に加入していれば宗教をやっているかといえば、そうではありません。なんらかの行動や習慣、思想や信念を持つことの方が、より本質的ではないでしょうか。要するに宗教の本質は、「信じる」ということにあると思います。

たとえばキリスト教であれば、聖書という教典があり、それが一定の規範となっています。キリスト教を信じている人は、聖書に書かれていることを信じているのです。たとえば聖書に「隣人を愛しなさい」と書かれてあるとすると、信者は「隣人を愛することは、人として正しいことである」または「良いことである」と信じるでしょう。この信条や信念に基づいて生きることこそ、宗教者としての姿であると思います。

ここで、今回の記事の最大のテーマに入ります。では、宗教をやっていない人は、何も信じていないのでしょうか。さらに厳密にいえば、自分は宗教をやっていないと思っている人には、何の信念もないのでしょうか。

この記事を読んでいる人でも、たとえば次のような事柄を信じているのではないでしょうか。友人は大切にするべきである。自然を破壊してはいけない。部屋は清潔にするべきである。これらは当たり前かもしれませんが、信じているといえば信じていることです。

もう少し微妙な例にいきましょう。お金はあまり多く使わない方がいい。嫌いな人とは関わらなくてよい。動物を食べるべきではない。これらの事柄は、信じている人と信じていない人がいます。

私たちは、こういったさまざまな細かい信念を構成して思想を形成し、それは実際の生活や行動に表れているはずです。つまり、どんな人でも何か信じていることがあり、それがその人の価値基準になっているのです。

このように考えると、冒頭で「宗教」として紹介したようなものと、「友人は大切にすべき」などという信念に、本質的な違いはあるでしょうか。これは、いわゆる宗教というものの存在意義にかかわってくる、重大なテーマであると思います。宗教ってなんだ、そんなに大事なものなのか、必要なものなのか。そんな問いに少し頭を巡らしていただけたなら、この記事を書いた甲斐があったのではないでしょうか。次回も引き続き考えていきます。

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