中学校の部活動をなくすべきか

どうもシャオムです。

「中学校の部活動をなくすべきかどうか」という議論が盛んになされるようになってきました。今回は、公立の中学校で部活の顧問を受けもっている僕の立場からこの問題を考え、最後に僕自身の気持ちやスタンスをお話ししようと思います。

1. 「部活なくせ」の背景にあるもの

 まずは、なぜ部活をなくすべきだという議論が起こっているのかを確認します。この記事を読んでいる多くの皆さんは、自分たちが中学生のころ、学校に部活動があり、さまざまな経験の違いはあれど、部活が子どもたちに与える一定の「充実感」や「教育的意義」を理解されていると思います。では、なぜそんな部活をなくすという話になるのでしょうか。

 第一に、部活があることによって、教員の勤務時間外の労働時間が膨れ上がるからです。教員の残業にまつわる制度について説明すると長くなってしまうので割愛するのですが、少々の誤解を恐れずに言うのなら、教員の時間外労働は無償です。つまり、部活を夕方5時を超えて指導したり、休日に引率したりすることは、ほとんどタダ働きです。

そして、報酬が無いことよりも問題なのは、多くの教員が、部活があることによってそのような時間外の労働を強いられていることです。僕も、多少なりとも部活によってこの時間外労働を強いられています。実際に部活をなくすかどうかの議論においては、メリットとデメリットを天秤にかけて公平に判断されるべきです。しかし、この「時間外労働」の実情があまりにも過酷なので、どんなに「部活はすばらしい!」と言って立ち向かったとしても、教員の時間外労働の問題にテコ入れすることなしに、「やっぱり部活はこのまま残そう」とは言えない状況になってきているのです。

 第二に、子どもへの負担です。日本の教育において「しんどい練習を乗り越えることによって成長できる」という考え方が根強い一方で、そのような考え方に、疑問を呈する人が増えてきました。高校野球に象徴されるように、学生時代のほとんどを部活に費やし、部活を通して友情を深め、部活を通して心身共に鍛えるという姿に、私たちはかなり美しいイメージを持っています。少なくとも、世の中にはそのような「青春」のイメージを持っている人がたくさんいることは、想像していただけるのではないでしょうか。僕はこれを悪い考えだと思うわけではないのですが、わかりやすさのために、このような「部活に汗を流す青春はいいもんだ」という風な考えのことを「部活神話」と呼ぶことにします。

 多くの日本人が部活神話を信じている一方で、部活に偏った生活は良くないと声を上げる人も増えています。長時間を部活にあてることによって、十分に勉強できない。部活以外のさまざまな経験をするチャンスが失われる。部活が子どもたちの体に負担をかけすぎている。これらのような議論がなされるようになり、部活は子どもたちにとっても、必ずしもよい成長の機会とはいえなくなってきている現状があります。

 

2. 「部活をなくすな」と思っているのは誰なのか

 ではここで、部活をなくすべきかどうかの議論において、「部活をなくすべきではない」という立場の意見を確認しましょう。「部活はすばらしい」という部活神話は一旦さておき、現実的な意味での部活のメリットを考えてみましょう。

 結局のところ、部活がもたらしている最大の恩恵は何かというと、スポーツや文化活動の機会をすべての子どもに公平に与えていることです。「すべての子どもに公平に」というのはかなり強いものの言い方なのですが、これまで部活動は本当に多くの子どもたちに「頑張る場所」を与えてきたと思います。スポーツでも音楽でも、部活がなければやっていなかっただろうという人は、おそらく大勢います。今の日本人は、中学に部活がない世界というのをほとんど経験していないので想像するのが難しいのですが、部活という仕組みがあることによって、部活がなければ野球をしない多くの子どもが野球を始め、部活がなければ音楽に触れることのない多くの子どもが吹奏楽と出会うのです。今まで部活があることが当たり前だったからこそ、部活がなくなることのデメリットは計り知れないと僕は思っています。

 そして、部活に関わる大人の立場はどうでしょうか。まず教員ですが、これは部活をやりたい人とやりたくない人で二分されると言ってよいです。部活を指導することに興味がなければ、ただのしんどい仕事なので、やりたくないのは当然です。部活をやりたくない立場からすれば、現状のような状況は控えめに言っても理不尽です。一方で、部活をやりたい教員からすれば、部活は自分の指導したい分野で子どもたちを育てることができる絶好の機会となっています。そのような先生たちにとっては、部活ほど、利害が絡むことなく子どもたちが純粋に活動に打ち込める場所はないのです。僕は現在、幸運にも自分の好きな部活を教える機会をいただき、部活を通して中学生たちと、最高に充実した日々を過ごしているので、部活はなくなってほしくないと思っています。

 また、実際に中学校で働いている実感では、保護者はおおむね、部活から多くの恩恵を受けています。大きなお金をかけずに子どもがスポーツなどに打ち込むことができ、家で面倒を見る時間も減るからです。「部活をなくすな」という立場の意見が、少しは明らかになったでしょうか。

 

3. これからどうなるのか

 さて、部活をなくすかなくさないか、それぞれの立場を確認したところで、現実的にこれからどうなっていくのか、僕なりの見通しをお話ししたいと思います。

 まず、先述のように、部活をなくすにしてもなくさないにしても、教員の勤務時間の超過に対して、何らかの手を打たざるをえない状況があります。そこで、現実的な解決策として議論されているのが、部活動の外部化です。部活の話題に関心のある方ならもう理解しておられると思いますが、部活動の外部化とは、要するに、部活を教員が教えるのではなく、ほかの誰かが教えるようにしようということです。

これには大きく分けて2つの場合があります。1つは、学校の部活という形態を維持したまま、そこに教員ではない誰かを指導者として招くという方法です。もう1つは、学校の部活動を廃止し、子どもたちが部活と同じような活動をできる機会を何らかの形で確保するという方法です。この2つの違いは、学校教員としてはかなり大きな違いなのですが、個人的には、教師がいなくても活動ができるようにするというのがポイントであって、この違いはあまり重要ではありません。

 部活を外部化することによって、教師が部活の負担から解放されるだけでなく、子どもたちがより専門性の高い指導者に教わることができるかもしれないという利点があります。今までの学校には少なからず、「部活に入らなければいけない」というような風潮があったので、そういう意味でも部活の外部化は、子どもたち自身の「やりたい」という意志を尊重することにもつながるかもしれません。

 一方、部活を外部化することの懸念点は何でしょうか。これは、財源に尽きると思います。つまり、学校の教員ではない指導者を雇うお金はあるのかという問題です。これは、僕は財政には詳しくないですが、僕自身の感覚から考えると、「行政にはそんなお金はない」という結論になってくるでしょう。部活動という概念がない国では、「コーチに教わるんだから、親がコーチに報酬を払うのが当たり前」という考えなのですが、これがまさに、今まで部活の指導が「ただ」で提供されてきた日本との大きな差なのです。今、仮に、部活は教員の負担だから廃止、やりたい人は外部の指導者にお金を払ってください、と言ったらどうなるでしょうか。おそらく多くの子どもたちは、スポーツや文化活動をする機会を奪われるでしょう。公教育から部活を切り離すということは、どうしても格差を生むことにつながると言わざるをえません。以上に述べたような財源の問題が、結局のところ部活をなくすかどうかの議論の焦点であると思います。

 

4. 僕の意見: 部活はなくすべきである

 ここまで長文を読んでいただき、ありがとうございます。最後に僕自身のスタンスをみなさんにお伝えして終わります。

 先ほど述べた通り、今、部活動に携わっている者として、今後もこの指導を続けていきたいと心から願っています。僕の場合は、おそらく今後、部活が廃止されたら、何らかの形で指導を継続できる場を自分で探すと思います。それほど自分の人生の中で、今やっている部活は重要なウエートを占めています。

 しかし、一般論で考えた場合、このままの状態で部活を維持することはできなくなると思っています。とりあえず、教員を過酷な労働から解放しなければなりません。教員の人権を守ることが、部活を維持することよりも優先されたとき、私たちは多くのものを失うでしょう。しかし、これはしょうがないと考えるべきだと思っています。今はもうみんな、貧乏なのです。今まで持っていたものを、これからも持ち続けることはできなくなるのかなと思っています。

 部活は教育に関する人だけでなく、スポーツや音楽に関わる多くの人に影響を与えているものです。これからの部活がどうなるのか興味のある方へ、少しでも考えが伝わっていれば幸いです。

 

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