優越感がモチベーションになる場合について

どうもシャオムです。

僕は2年ほど前から、ある合唱団に入っています。このブログでも何度か合唱についても書いていて、コロナ禍の中でも慎重に活動を続けてきました。

そんな中、先日、僕が合唱団のホームページを管理するという仕事をもらいました。今まで管理していた方から引き継ぎを受けて、ページの更新のやり方などを教えてもらいました。

「ホームページの引き継ぎを」と言われたときは、軽い気持ちで「いいですよ」という感じだったのですが、いざやってみるとなかなか難しいものでした。一般的なウェブサイトは、HTMLというプログラミング言語(のようなもの)で書かれていて、サイトを作るにはその作法を覚えなければなりません。このブログももちろんHTMLで書かれていますが、それは僕が一からコードを書いているのではなくて、あらかじめはてなブログで用意されている雛形に、僕が文字を打っているだけです。今までほとんどウェブページを作ったことがない僕にとって、合唱団のページの管理は思った以上に大変なことでした。

しかし、それをめんどくさいとかできないと思うことはありませんでした。それは僕が、プログラミングにちょっと興味があるということもありますが、何よりモチベーションになっているのは、人ができないことをやっているという実感です。

僕を含めて、人が何かに取り組むときにはモチベーション(動機)というものがあります。たとえば、勉強をしようというときには、おもしろそうだからやる(好奇心)、報酬が得られるからやる、やらないと悪いことが起こるからやる、人の役に立ちたいからやるなど、いろいろなモチベーションがあります。そんな中でも、優越感がモチベーションになる場合があると僕は思っています。たとえば、数学のテストで100点を取れる人は他にいないだろうから、自分が100点をとってやろう。このようなモチベーションです。もし100点を取るのがそれほど難しくなく、たくさんの人が取れるようなものであれば、優越感を得たいという動機は働きません。もっとよく使われる言葉でいえば、見栄や名声を得ることに近いかもしれません。しかし、見栄や名声は人から認められることに重点がありますが、優越感というのは必ずしも人から認められない場合もあります。人は知らないかもしれないけれども、確実に自分は人ができないことをできるんだという実感です。

このような「人より優れていることを嬉しがる」ような価値観というのは、ネガティブに捉えられることが多いと思います。だから、あまり人より優れているということをひけらかしたりするようなものではありません。しかし、僕は自分の経験のうえで、黙っているけれども人より優れていたいということをモチベーションにして頑張るということがけっこうあります。今回のサイトの運営もそうだったと思います。

僕はこのような優越感というものが、本質的に「良い」ものだとはあまり思っていません。それはやはり、優越感というものが他人との兼ね合いのうえで成り立つものだからです。基本的に「人にあまり影響されないでいたい」という思いが強すぎる僕からすれば、優越感というのは非常に「俗っぽい」動機だなと思います。ただ、ある技術を身につけたいとか、何かを成し遂げなければならないときに、結果として優越感がモチベーションになったおかげで成し遂げられたということはあります。もし優越感がなければそれが成し遂げられなかったとしたら、モチベーションとしての優越感は、目標達成のための手段として、正しく認識されるべきものなのではないでしょうか。えらく抽象的な話になってしまいましたが、それが今回の出来事から考えたことです。

僕が教育に向いていないと思う理由

どうもシャオムです。

学校で働き始めて1ヶ月が経ち、少し考える時間というものができてきました。ひと月過ぎて感じることはいくつかあるのですが、今回はその中でも、自分が教師に向いていないなと思う部分についてお話しします。

今の率直な気持ちとしては、思っていたよりは学校に馴染めているとは思います。周りの先生方に助けてもらいながらいろいろな仕事をなんとかつないでいる状態ですが、何よりクラスや授業で子どもと接するのは楽しいと感じています。それだけでも、ああ学校に来てよかったなと思える理由になっています。

一方で、学校での仕事の中で、自分が強いストレスをおぼえる場面というのがいくつかあります。その一つが、子どもを褒めること・叱ることです。もう少し詳しく言うと、「あえて」褒めたり、「あえて」叱ったりすることです。たとえば、教師としてよく言われるのが、「良いことは褒めると続くようになる」ということです。たとえば、静かに先生の話を聞いていれば「静かに聞けていましたね」とか、早く整列できたら「早く並べましたね」とか。たしかに、子どもからすれば、承認されることでそれが正しい行動だと思うようになるでしょう。だから、このように「良いことを褒めれば続くようになる」というのは僕は正しいと思っています。

しかし、僕もこういう「良いこと」は気づいたら褒めるように気をつけているのですが、どうも違和感があります。それもそのはずで、心に思ってもないことを言って褒めいるのです。だから、結果的に子どもたちは僕の褒める発言によってそれを良いことだと認識したとしても、僕にとっては思っていないことを口から発しているという恥じらいや嘘があります。

なぜこうなるのかを考えてみたのですが、問題は、僕が学校で美徳とされている集団行動にほとんど価値を感じていないことです。静かに人の話を聞く、素早く整列する、言われた通りに行動するなど。たぶん心のどこかで「そんなことできたところでどうするねん」という気持ちがあるのだと思います。もちろんこれらは学校ではできないと困ることなので、ちゃんとできたならば褒めるべきなのでしょう。しかし僕は、集団行動がうまくできた集団に対して感動をおぼえませんし、特に何も思いません。特に何も思っていないのに褒めるのは、気がひけるのです。

これはおそらく、教師としては不便な性格です。思った通りに褒めるのはむしろ良いことだと多くの人は思うかもしれませんが、おそらく学校の先生たちは、ほとんど無意識に褒めたり叱ったりしていることが多くあるのではないかと思っています。「静かに聞けていましたね」などという言い文句は、集団管理のための基本的技術として、多くの教師に刷り込まれているのでしょう。

僕はこの技術を身につけるべきなのでしょうか。答えはまだわかりませんが、身につけるとしたら、人一倍苦労するかもしれません。いや、これを身につけない方が、教師として険しい道に入っていきそうです。

「何のために勉強するのか」を聞かれた日

どうもシャオムです。

子どもたちが入学してから2週間が過ぎ、授業が始まりました。僕にとっても初めての授業。いろいろな気持ちを抱いて、初回、2回目と授業をしていきました。そんな中、あるクラスで、授業が終わったあとに質問をしにきた子がいました。

「何のために勉強すると思いますか?」

僕の口から最初に出た言葉は、「おおぉああー」でした。口から出た言葉というより体の底から出た唸りとでもいうような何かでした。

僕にとって、この「何のために勉強するか」という問題は、人生最大のテーマといっても過言ではないものです。このブログを何度も読んでくださっている方であれば、僕が「学ぶ目的」という問題にかなりこだわっている人であることがわかっていただけると思います。そういうわけで、教師になるにあたっても、勉強の目的について子どもたちにどう伝えるかは、大きなテーマだったわけです。

もし、この質問を受けたのが3年後だったなら、僕は「よしきた!」と思って得意げに語っていたかもしれません。僕の「おおぉああー」という唸りは、「こんな早くにそれを聞かれるとは思ってなかった」という偽らざる気持ちの表れでした。

「なんで勉強なんかせなあかんねん」という質問と、「何のために勉強すると思いますか」という質問は、その根本において、まったく別の質問です。前者の質問は、「私が勉強しないといけない理由を、教師であるあなたは説得力を持って説明できるのか」という、いわゆる教師を試す意図を持った質問です。また、教師を困らせることによって、勉強しないことを正当化するための質問なのかもしれません。一方、後者の質問は、「何のために勉強するのか、私は悩んでいるけれど、答えは出ないから、先生の意見を聞きたい」という純粋な疑問です。今回、その子が僕にたずねてきた質問は、完全に後者でした。前者の質問なら、今までも何度かされてきました。しかし、後者は初めてでした。いわば、教師生活ひと月にも満たない僕が、いきなり真剣勝負を挑まれたということなのです。正直なところ、準備不足といえばそうでした。

僕はその子に対して、自分の思う勉強の目的を、一言二言しゃべりましたが、まだ自分で納得がいくほど答えられていません。授業の合間の休み時間では、到底完結しない話です。これから一年かけて、その子と語り合っていきたいと思っています。あの質問をされて数日、答えられることよりも、一緒に考えてあげることの方が大切かもしれないと思うようになりました。仮に放っておいたとしても、その子は自分で熱心に勉強し、立派に育っていくイメージしか湧きません。しかし、本気には誠実で応えなければいけない。純粋には真心で応えなければいけない。そう心に決めて臨みたいと思います。1人の中学1年生が発したその質問は、まだ始まったばかりで雑然とした僕の教師生活に、一筋の光を投げかけたのでした。

学級経営とは何か

どうもシャオムです。

入学式、始業式が終わり、クラスがスタートしました。いよいよクラスを運営していかなくてはいけなくなったのですが、僕はそもそも、学級経営にまったく関心をもっていませんでした。2年前、教師になろうと思った理由は、勉強を教えたいからでした。2年間を経て、その考えは少しずつ変わり、今は、勉強も含めて子どもの成長を助けたいという考えになりました。しかし、「集団」という観点では、ほとんど教育を考えたことがありませんでした。そんなわけで、どうやってクラスを運営していくかという問題が、今、僕の上にのしかかっているのです。

さて、学級経営まったくの素人の僕が、何をしていくでしょうか。僕が思っていた以上に、学校の先生たちは、学級づくりに力を入れています。今のところ、最大のエネルギーを注いでいるといっても過言ではないように見受けられます。クラスが始まってからの1週間は「金の1週間」と呼ばれ、この1週間をどう過ごすかがきわめて重要であると言われています。僕はこの意味が理解できなかったので、なぜ最初の1週間がそんなに大事なのか、そして学級経営とはいったい何なのかを初めて考えてみました。

学級経営がなぜそれほど重要かというと、それは学校の秩序を保つためです。たとえば、身勝手な行動をする子がリーダーになってしまう。そうすると、誰かが身勝手な行動をしたとき、それを正せる生徒がいなくなります。然るべき人をリーダーにしなければ、クラス全体が荒れてしまいます。誰を中心にしてクラスを回すのかということは、秩序を保つために重要なのです。また、周りと同じように生活や学習ができない子に、必要な支援をするのも大事なことです。彼らを放っておけば、学校に来れなくなったり、周りに悪影響を及ぼすかもしれません。日ごろから友だちが彼らをサポートできるような仕組みを用意したり、彼らができるだけストレスを感じないようなクラス作りをしたりすることが大事です。そして、1つのクラスが荒れてしまえば、それは学年や学校全体にまで波及するでしょうから、クラスの秩序を維持するということはやはり重要なのです。

ここで1つ考えてみたいのは、秩序を維持することがそれほど重要なことなのかということです。たしかに、学校の秩序が乱れれば、ちゃんと勉強したいと思っている子にとっての損害になります。この意味で、学校が荒れることは子どもたちを不幸にするといえます。学校の秩序が保たれていることによって、子どもたちは安心して生活でき、勉強やほかの活動に打ち込むことができます。しかし、このように安定した秩序というのは、学校に特有のものであり、社会一般からすれば非常に異質なものです。つまり、私たち教師が必死で守ろうとしている学校の秩序は、学校という世界だけに存在するものなのです。子どもたちが社会に出れば、もっと混沌とした環境で、それぞれ生きていかなくてはなりません。にもかかわらず、子どもたちは、学校という極端に守られた環境で何年も過ごし、社会に出るのです。これは、本当に子どもたちのためになるでしょうか。こう考えるならば、私たち教師はそこまで子どもたちを守りに守って、秩序を維持するべきでしょうか。現状では、答えはイエスでしょう。そうしなければ、たくさんの子どもが路頭に迷うか、社会に適応できずに落ちていってしまうでしょう。ただ、現状の学校のように、守られた環境で子どもたちを育てるということが、必ずしも理想的ではないということは、心に留めておかなければならないと思っています。

先生になった日の話

どうもシャオムです。

ブログの更新頻度が下がっていますが、これからも細々と続けていこうと思っております。

さて、4月の頭から、中学校の教員として働くことになりました。すでに10日が過ぎ、初めての生徒の入学を迎えました。今回は、教員になったときの気持ちを書きとどめておこうと思います。

僕が教員になるにあたって、両親はそれぞれのアドバイスをくれました。というのも、彼らはもともと教師なのです。僕が教師になろうと思ったのは22歳のときですが、生まれ育ちから見れば、当然の選択といえるわけです。そんな、教師としての先輩でもある母親(今は退いている)からもらった指導は、「自分から教わらないといけない」ということでした。これにはいろいろな意味が含まれていると思いました。前提として、学校はビジネスではないため、1人の教師が足を引っ張っても数字の上での損害はない。だから、会社に比べれば、新人を育てる仕組みは充実していないということです。また、世の中の先生たちは忙しすぎて、後輩を教えている暇はないということでもあるかもしれません。いずれにしても、この10日間働いてみて、「自分から教わる」という姿勢はたしかに大事だなという気がします。

一方の父親は、僕がこれから学級運営をする上でのアドバイスをくれました。それは、叱ることの重要性です。僕は今まで、人を叱ったり、人に対して怒ったりしたことがほとんどありません。元来、周りの人に感情を動かされにくいタイプであり、自分が何かをされても「怒り」よりは「あきらめ」や「無関心」が先にくる方です。ましてや、自分に関係がないことについては、人が何をしようとどうでもよく、注意したり叱ったりしようという気にはならないようにできています。しかし、学校(教育ではなく)においては、叱ることがきわめて重要な意味を持ちます。なぜなら、教師が何に対して叱るかが、子どもたちの善悪や正邪についての基準になるからです。たとえば、教室で消しゴムを投げた生徒に「消しゴムを投げてはいけない」と言えば、そこにいる全員は「消しゴムを投げてはいけない」と思います。反対に、放っておけば、消しゴムを投げてもよいことになります。極端な話ですが、現状、学校という仕組みでは、教師の言動が大きく子どもたちの価値基準に影響を与えます。だから、叱ることは、叱ったその子だけでなく、全員に関わる大事(おおごと)なのです。

子どもたちがやってきて2日が過ぎました。これから、予測できないことが次々と巻き起こるに違いありません。この1年がどうなったとしても、僕にとっての最初の生徒となった彼らのことは、一生の記憶として残るでしょう。否、そうなるように関わっていかなければいけません。彼らが25歳になったとき、今の僕に対してどんな評価をするか。そんな空想をしているうちに、次の1週間が始まろうとしています。

現代人は何を信じているか

どうもシャオムです。

前回、宗教とはなんなのかを考えました。そこでは、宗教の本質は「信じること」であり、人は誰でも何かを信じて生きているという点において、それは宗教的な生き方であるという話でした。そこで今回は、現代の多くの人々がどんなことを信じているのかを考えてみたいと思います。

僕がいろいろな歴史を読んでいる限り、それぞれの時代には、信じる対象のトレンドがあります。たとえば、太平洋戦争の時代には、お国のために死ぬということが美徳とされていました。また、軍事的に強くなることが、国として正しいことであると多くの人々に信じられていたのではないでしょうか。戦後には、高度経済成長期がおとずれ、お金を持っていることがとにかく是とされる、すなわち拝金主義的な傾向が今よりも強かったのではないかと思います。このように考えていくと、そのときそのときで、人々の信じていることは変わっていることがわかります。

では、昔の軍事力信仰、経済力信仰にとって代わっている、現代の「信仰」のトレンドは何でしょうか。いろいろな見方があると思いますが、僕は一つには、テクノロジーだと思っています。私たちは無意識のうちに、科学というものに一定の信頼を置いています。「現金を使わなくてもスマホ買い物ができるらしい。使ってみよう」などと言って、私たちはどんどん新しいテクノロジーを受け入れていきます。それはもちろん「便利だから使う」という当然の論理があるのですが、実はよく考えていくと、本当は必要ないのになんとなく使っていたり、人間や環境に与える負の側面を考えずに使っていたりすることがよくあります。これはつまり、科学が人間にどんな影響を与えるのかという問題を抜きにして、一方的に科学に追従しているといえます。これが僕が思う、「テクノロジー信仰」の内容です。

では、はたしてテクノロジーは、信じるに値するものでしょうか。いろいろな考え方があるでしょう。この問題に答えるためには、たとえば次のような問題を考えてみるとよいです。仮に医学が進歩して、人間が無限に生きられるようになったとするならば、私たちは生き続けるべきだろうか。テクノロジーへの信仰は、この問題を解決してくれません。テクノロジーは人間が生き続けるための技術や方法を提供しますが、人間がいかにいきるべきかという倫理観の部分に何も貢献しないからです。このように考えると、科学信仰の限界が見えてくるのではないでしょうか。

今回は、現代人をとりまく「テクノロジー信仰」という問題について考えてみました。もっともっと細かく見ていけば、不自然な「○○信仰」が世の中には存在していることでしょう。「宗教は阿片」との言葉どおり、誤った宗教は人間を不幸にするのではないかと思っています。この問題から目を背けられない時代がいよいよきているのではないでしょうか。

「宗教」を広い意味で考える

どうもシャオムです。

日本人のうちで、いったい何割の人が宗教をやっているのか。それは世界の中では、少ない方なのか。こうした疑問がときどき話題に上がることがあります。もちろん何かの宗教団体に所属しているかどうか、統計を取ることはできるわけであって、それは実際に行われています。しかし、団体に所属していれば本当に信仰をしているかと言われれば、必ずしもそうではありません。反対に、私たちは、何らかの団体に所属しなければ宗教をできないのでしょうか。今回は、これらの事柄について少し考えてみたいと思います。

いま、宗教の名前をいくつかあげてみましょう。イスラム教、ユダヤ教キリスト教ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教。これらにはさらに細かい系統があり、また他のさまざまな宗教もあります。あげはじめればきりがなく、また絶えず新しいものが生まれ、いつ生まれたのかもはっきりわからないというものでしょう。

こういった宗教は、そもそも何のために生まれるでしょうか。宗教の存在意義は壮大な問題ですが、端的にまとめてみましょう。まず、宗教団体としてみるならば、それは人々を救うということが目的にあるでしょう。それぞれの宗教が、社会になんらかの矛盾や取り除かなければならない問題を見出していて、それに対するアプローチを説いているのではないでしょうか。また、信仰する側から見れば、宗教は自分が救われることや幸せになること、心の平穏や充実感を得ることが目的になっているのではないでしょうか。

宗教について一般的な見方を確認したところで、次に「宗教をやっている人とやっていない人を隔てるものは何か」を考えてみましょう。先ほども述べたように、宗教団体に加入していれば宗教をやっているかといえば、そうではありません。なんらかの行動や習慣、思想や信念を持つことの方が、より本質的ではないでしょうか。要するに宗教の本質は、「信じる」ということにあると思います。

たとえばキリスト教であれば、聖書という教典があり、それが一定の規範となっています。キリスト教を信じている人は、聖書に書かれていることを信じているのです。たとえば聖書に「隣人を愛しなさい」と書かれてあるとすると、信者は「隣人を愛することは、人として正しいことである」または「良いことである」と信じるでしょう。この信条や信念に基づいて生きることこそ、宗教者としての姿であると思います。

ここで、今回の記事の最大のテーマに入ります。では、宗教をやっていない人は、何も信じていないのでしょうか。さらに厳密にいえば、自分は宗教をやっていないと思っている人には、何の信念もないのでしょうか。

この記事を読んでいる人でも、たとえば次のような事柄を信じているのではないでしょうか。友人は大切にするべきである。自然を破壊してはいけない。部屋は清潔にするべきである。これらは当たり前かもしれませんが、信じているといえば信じていることです。

もう少し微妙な例にいきましょう。お金はあまり多く使わない方がいい。嫌いな人とは関わらなくてよい。動物を食べるべきではない。これらの事柄は、信じている人と信じていない人がいます。

私たちは、こういったさまざまな細かい信念を構成して思想を形成し、それは実際の生活や行動に表れているはずです。つまり、どんな人でも何か信じていることがあり、それがその人の価値基準になっているのです。

このように考えると、冒頭で「宗教」として紹介したようなものと、「友人は大切にすべき」などという信念に、本質的な違いはあるでしょうか。これは、いわゆる宗教というものの存在意義にかかわってくる、重大なテーマであると思います。宗教ってなんだ、そんなに大事なものなのか、必要なものなのか。そんな問いに少し頭を巡らしていただけたなら、この記事を書いた甲斐があったのではないでしょうか。次回も引き続き考えていきます。

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