専門性か教養か

どうもシャオムです。

教育で何を育てるかを議論するとき、よく話題になるのが「幅広い教養か、それとも専門性か、どっちが大事なのか」です。今回はこの問題について考えていきましょう。

 

まず、専門性が重要だという人の理論はこうです。AIがさまざまな仕事を代替する時代において、その人にしかできない仕事を持つのは重要である。そのためには専門的な知識を得て、何か一つの領域でプロになったほうがよい。

一方の広い教養派の意見はこうだと思います。社会・経済が高度に専門化すると、人々は自分の領域外で何が起こっているかわからなくなる。これは領域外の他者への想像力の欠如をもたらし、人々の結合が弱くなっていく。あらゆる社会問題はある一つの分野のみに関わる問題ではなく、さまざまな分野が複雑に絡む問題だから、分野を超えて物事を見る目を養わなければならない。

 

では、この一見対立する2つの立場は、たがいにどう関係しているでしょうか。

たとえば、料理人になりたいと思ったAさんは、修行をして自分のレストランを出すことを決めました。ほとんどの時間とエネルギーを料理に費やし、Aさんの料理の腕前(専門性)は、一人前になりました。いま、Aさんの店は評判になり、Aさんはお金持ちになったでしょうか?それはわかりません。なぜなら、Aさんの店が評判になるためには、どこに店を出すか、どうやって宣伝するか、店内でどういうサービスをするかなど、いろいろなことを考えなければなりません。これらをすべてAさん1人でやろうと思えば、広告や飲食業界に関する幅広い学び(教養)が必要です。専門性だけではお金にならないし、社会に影響を与えることもできないということです。

 

もう少し掘り下げてみます。

専門性だけではもうからないと言うけれど、Aさんは料理に専念して、店の運営は運営の専門家に任せ、広告は広告の専門家に任せればいいんじゃないの?彼らにお金を払ってやってもらえばいいし、それが経済なんじゃないの?

その通りです。こうやって経済全体で役割分担ができることが、専門性の価値が担保されている理由です。一人一人の人間が自分の役割に専念することによって、私たちはすばらしい料理を食べたり、傑作の映画を見たり、新しいテクノロジーの恩恵を受けたりすることができます。それぞれの分野に発展をもたらすものは、専門性にほかなりません。

 

そこで、次の問いです。

じゃあ、教養は何のために必要か?このことを最後に考えてみましょう。

ピアニストのBさんは日本で高い評価を受けていて、毎回のコンサートは満員になるほどです。Bさんがピアノを上達すればするほど、ファンの数も、収入も増えました。では、Bさんの収入はすべてピアノの技術からくるものでしょうか。さっきの料理人の例と同じく、そうではありません。

あるとき、新しい感染症が流行し、ホールでのコンサートができなくなりました。すると、Bさんは圧倒的な技術を持っているにも関わらず、収入が得られなくなってしまいました。収入ばかりではなく、社会にはたらきかけることも、自分の力を発揮することもできなくなりました。このことが示すものは、Bさんの仕事は、コンサートという仕組みに依存しているということです。感染症によってその仕組みが機能しなくなったとき、Bさんを助けてくれるものはありません。政府からの補償は収入を補いますが、Bさんの力を活かす場所はなくなったままです。このときBさんに必要なのは、技術ではなく、自分の音楽を届ける方法です。この方法を考えるために何が必要か。教養が必要です。過去の音楽家たちはどうやって感染症を乗り越えたんだろう、オンラインで音楽を届けている人はどうやって成功しているのだろう、など。これらは社会のさまざまな事柄とつながっていて、音楽だけをやっていれば理解できません。つまり、危機の下でBさんを救うのは、教養、もっと詳しくいえば、幅広い知識に基づく思考です。

 

世の中が安定しているとき、専門化された仕事は社会の仕組みに守られ、人々は安心して自分の仕事に専念できるでしょう。しかし、変化の激しい時代には、今まで価値のあった仕事に価値がなくなるかもしれません。反対に、今まで価値とみなされていなかった能力が、仕組みの変化によって大きな価値となることがあります。このような時代に自分の身を守り、社会に影響を与えられるのは、幅広い物事に目を向け、学びを止めない人たちです。

 

 

それぞれが自分の専門性に加え、古い仕組みを乗り越え自分の専門性を活かすための教養、仕組みの問題を見抜き新しい仕組みをつくるための教養。これらすべてが求められるのではないでしょうか。

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