見えないコストはどこにあるか

どうもシャオムです。

僕は自分のことを面倒くさがり屋だなあと思います。これは良い悪いの問題ではなく、そのせいで大事なことをし忘れることもありますし、面倒くささから効率が良くなることもあります。

最近めんどくさいなあと思うのは、スーパーやコンビニで「レジ袋はいりますか?」と聞かれることです。7月からレジ袋が有料になり、あらゆるお店でこのやり取りが発生することになりました。もちろん、みんながレジ袋有料のシステムに慣れていけば、店員がこんなことを聞く必要はなくなるのでしょうが、それにしても僕にとっては面倒です。

そもそもレジ袋を有料化するかどうかの議論において、何が語られてきたでしょうか。「有料化すべき」の意見としては、プラスチックが減ることによって環境保全につながる、人々の環境問題への意識が高まる、ゴミが減る、などでしょうか。個人的には、この中では環境問題への意識が一番重要だと思っています。「プラスチックは極力利用しない方がよいもの」という意識が高まれば、自然に消費量は減っていくでしょう。

では、レジ袋有料化によって、損しているのは誰でしょうか。それは、一日に何回も「レジ袋はいりますか?」と聞かなければならない店員です。それくらい気にならないという人にとってはどうでもいいことですが、僕のような人間からすれば非常に面倒です。

このことから考えたいことは、現場でかかるコストは見落とされやすいということです。レジ袋を有料化するかどうかで論点になるのは、環境を守るか経済を守るかのようなことです。そこに「店員がいちいちレジ袋がいるかを確認しないといけない」という議論は、なかなか入ってきません。要するに、意思決定の主体とコストを被る主体が違うということです。

これは政策においてもそうですし、企業の意思決定においても言えることだと思います。意思決定のときに自分にはあまり関係ないと思って傍観していると、後になって思わぬコストを背負わされることがあります。このような見えないコストに気づくためには、「これが決まったらどうなるかな」という現場への想像力をはたらかせないといけません。現場への想像力が高く、現場の声が浸透しやすい社会こそ、民主的な社会といえるのではないかと思います。

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