「極端」は論点を明確にする

どうもシャオムです。

まず、僕の友だちのフランコ君がブログを開設したそうなので、ここに紹介したいと思います。

francokun.hatenablog.com

フランコ君は僕と同じく、学校の先生になろうとしているので、教育関連の話題が中心になるそうです。今は修士に行っていて、しっかり研究しているようなので、フランコ君ならではのピリッとしたアイデアが得られると思います。ぜひご一読を。

 

さて、今回は手短に、「極端」についてお話しようと思います。

エクストリーミストという言葉を聞いたことがあるでしょうか。英語で過激派とか極端な人という意味ですが、日本語としては使われていないかもしれません。要は何かに関して極端な思想を持っていたり、行動をしたりする人のことです。人間や社会にとって、バランスというのは常に重要ですから、こういう極端な人というのはしばしばネガティブな意味でとらえられます。まして、社会制度など、みんなで物事を話し合うときには、こういう極端な考えは嫌われやすいです。労働を禁止にして、働いたら違法にしよう!という意見が通るわけはありませんし、労働基準法なんかなくしていくらでも働けるようにしよう!という意見も同じです。こういう極端な議論は、あまりあてにされることはありません。

しかし、「極端」を考えてみるのは、そんなに悪くはないものです。極端なことを考えることで、論点が整理されることはよくあります。たとえば、大きな政府か小さな政府か、という議論はよくある話ですね。国家が経済に大きく介入するのが大きな政府、あまり介入しないのが小さな政府です。これをたとえば教育の分野で考えてみましょう。

近年よくある議論で、「教育を無償化するか否か」という話があります。今、義務教育は無償ですが、それ以降の高等教育の費用を国家が負担するのかどうかということですね。この問題を現実で考える場合、何が論点で、無償化するとどんな影響が出るのかがはっきりわかる人は多くないかもしれません。ただこれは、国家が教育にもっと介入するかしないかという話なので、一度極端に考えてみましょう。

この世に公教育なんてない状態、教育が受けたければお金を払って受けられる世界ですね。この世界の良いところは、社会全体の教育の質が日々良くなることです。質の高い教育ほど、高い値段が付くので、みんな少しでも良い教育をしようと頑張ります。この世界の悪いところは、お金持ちの賢い子はどんどん賢くなりますが、貧乏で教育が受けられない子はコンプレックスを感じたり就ける仕事が限られたりすることです。

逆に、すべての教育を国家が管理する場合を考えましょう。この場合、教育格差がなくなり、制度のうえではどんな子にも学ぶ機会が保障されています。しかし、教育にかかる費用を国家が負担するため、国民は税金を払わないといけません。所得税のような儲ければ儲けるほど払う税が増えるようなものがあれば、税がない場合に比べて働くモチベーションは下がります。したがって、教育をアップデートして質を上げようという動きが鈍ります。これが、極端に考えるということですね。

このように一旦「極端」を考えると、根本的に何が問題なのかということがはっきりしてきます。特にSNSなどでは、極端な意見が叩かれる風潮があり、「みんなの意見を尊重するのが正しい」みたいな空気がどこかあります。ただ、極端な議論は極端なところに価値があり、思考の材料としてはもってこいなのです。この価値を認識し、自分で思考に役立てられるリテラシーを身につけていきたいと思います。

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