「時代錯誤」という言葉を聞いて思う事

どうもシャオムです。

テレビで過激な描写が流れると「今の時代にこんなのが」という声があがります。創業から長い大企業・年功序列・終身雇用のような会社は「時代錯誤」と指摘されます。もちろん、人間は社会の中で生きているので、社会が右へ行っているのに自分だけが左には行きにくいものです。どんな人も、時代の流れには合わせて生きていかなくてはなりません。

しかし、時代に合っている/合っていないというのは、あくまで周りに依存した価値観です。個人の好みや、信念や、倫理観とは本来関係ないものです。

たとえば、ある男性が「今の時代、セクハラをしないように気をつけないといけない」と言ったとします。この人にとってセクハラをしてはいけない理由は「そういう時代になった」からであって、「相手に嫌な思いをさせないように」という気持ちはありません。逆に考えると、セクハラをする男性に対して、誰かが「今の時代なのにあんなことを言う」と指摘したとすると、これも「時代錯誤」を指摘しているのであってセクハラというものの本質からは離れています。

ではある人が、「セクハラはそういう時代だからダメなのではなくて、相手を傷つけるからダメだ」と主張したとします。これはさっきの例に比べて、本質に近づいた議論になっています。しかし、考えてみると、もし50年前であればこの人はこんなことを言っていたでしょうか。「相手を傷つけるからダメ」という発言も、セクハラが叩かれる時代になったから出てくるようになったと考えられます。要するに、セクハラを叩いていい時代になったからみんなが叩くようになったということですね。私たちはこのことに注意する必要があります。

社会はまだ見過ごしているものの、何かのせいで確かに傷ついている誰かや、損している誰かがいることでしょう。それは、社会がそれに気づいたとき初めて問題になるのでしょうか。いや、問題はそこに厳然とありますが、気づかれていないだけですね。もちろん社会全体が問題に気づき、多くの人が声を上げるようになって、問題は少しづつ解決されるといえます。それを「時代が変わる」と言ったりもするでしょう。しかし、個人レベルの話として「今はこういう時代だから」と言って生きていきたいのか、「自分はこう思うから」「自分はこれが正しいと思うから」と言って生きていきたいのか、どっちでしょうか。僕は少なくとも、自分が正しいと思うようにしか生きられません。「これからの時代はこうなるよ」と偉い人は言い、それに従った方が、有利に生きていけると思います。ただ「時代がこうなる」のと「自分はこうしたい」というのは、また別の話です。

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