「消極教育」について

どうもシャオムです。

ルソーは教育学でよく語られる思想家の1人です。小説『エミール』が有名ですが、今回は、ルソーの消極教育について考えてみたいと思います。極端に言うと、大人に何かを教えさせてもいいことないから、子どもは特に何も教えずに放っておけということですね。もっと実際のところの理論は複雑ですが、話を簡単にするために、ルソーの消極教育という単語だけを借りて、この「いらないことを教えるくらいなら教えない」ということの意味について考えてみたいと思います。ルソーの思想については、また詳しく考えられればなと思います。

僕はもともと、教育に限らず、マイナスよりはゼロの方がいいと思って生きているタイプの人間です。いらないことをして周りに迷惑をかけるくらいなら、やらない方がましというような話です。「消極的」という言葉だけでとらえるとネガティブには聞こえます。「失敗を恐れて挑戦しない」というとなんかネガティブですよね。でも、実際には世の中、人間が無駄なことをしているという状況は多いと思っています。

教育でも同じで、親や教師が、教えなくてよいことをわざわざ教えているということはよくあります。そもそも教師は教えるのが好きで教師になっていることが多いでしょうから、いらないことを教えるのが悪いことであったとしても、それは自然なことです。ただ、やはりあるべき教育みたいなことを考えたときに、僕はどうしても、いらないことは教えるな、という発想になります。

どこまでが不必要でどこからが必要かは人によって意見が分かれるところでしょう。僕はその基準に対してどうこう言うのではなく、「不必要なことを教えるべきではない」という視点を持つことが大事だと思っています。極端に言えば、子どもというのは守られている存在です。自分でお金を稼がなくても生きていけますし、ルールを破っても許されることもあります。しかし、お金の稼ぎ方はお金を稼ぐことでしか学べませんし、ルールを守るということも、ルールを破ったら本当に罰せられるという状況でこそ身につく感覚だと思います。そう考えると、いくら子どもが守られた環境で教育を施したとしても、実際に生きていく上で大事なことはほとんど学べないということになります。そうなるくらいなら、子どもも大人と同じような「裸」の状態で社会に放り出してみて、自力で生き延びる力をつけさせた方が本物の教育ができるんじゃないか。これが僕の思う消極教育の一つの角度ではないかと思います。

現実では、子どもは守られるべき存在だと認識されています。社会には子どもに特有の人権が共有されていますし、子どもにだけ適用れる法律があります。一般的な価値観としての子どもの特権や特殊性を踏まえつつ、子どもが自分の足で歩いていけるような教育とのバランスを考えていくことが重要であると思います。

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