学校の限界を考えてみる

どうもシャオムです。

教育においては「21世紀型スキル」などと言って、知識だけではない問題解決能力やコミュニケーション能力が重視されるようになりました。もちろんこの背景には、グローバル化や情報化によって、一人一人が主体的に考えて生きていく必要が出てきたことがあります。一方で、私たちの人権は拡大していて、個人の自由が守られなければならないという考え方が定着しています。学校でも、21世紀型スキルのような新しい学力を身につけるべく、「主体的・対話的で深い学び」と言われる授業が目指されています。

ただ、そこで問題なのが、学校というもの自体が、集団を効率よく管理し教育することに最適化されてできているということです。学校でどんな取り組みをしようと、その枠組みは国家が集団を教育するために作ったもののままです。つまり、何かを教え込むことには適していますが、主体性とか自主性を育てることには適していないです。そんな中で、新たに教育を変えようとするのはなかなか難しいことであるのがわかると思います。集団管理に最適化されたゲーム機で、自主性を育てるソフトを作ろうとしているということですからね。例えが合っているかはわかりませんけど。

学校否定論というのは昔からあって、要するに学校という仕組み自体がいけないという考え方です。こういうのは学校の中で教育をしている人たちからすればかなりの極論になるわけです。しかし、僕は上に書いたような理由から、学校に代わるハード(枠組み)の出現は必要なのではないかと思っています。少なくとも、このように根本的に考え直すことで、学校にとらわれていては見えないことが見えてくるのではないでしょうか。

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