被害者が苦痛を感じていれば「いじめ」か

どうもシャオムです。

文部科学省によると、いじめは次のように定義されています。

 

当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理 的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。

 

いじめの定義はこれまでいろいろと変わってきていて、今はこのように「被害者が苦痛を感じでいるかどうか」という基準になっています。今回は、これについて短めにコメントしたいと思います。

この定義に不自然なところがあるとすれば、「被害者が苦痛を感じていなければ何をしてもいい」と読めることです。もちろんいじめに関するさまざまな資料はそんなことは言っていないので、国が決めている定義を批判しているわけではありません。

ただ、これは極端に言えば、パンチしても笑っていればパンチし続けてもいいのかみたいな話になってくるわけです。

実際に学校現場には、いじめかどうかの微妙な出来事というのは起こるでしょう。たとえばある子がある子をよくひっぱたいている。周りから見たらかなり激しいですがやられている子はいつも笑っていて、仮にその子は本心から嫌な思いをしていないとします。こんなとき、周りの大人は何もしなくて良いのかというと、これは止めるべきではないでしょうか。

まず、ひっぱたいた子が、Aさんに対して問題とならない行為は他の誰かにも通用すると思ってしまう。そして、ひっぱたかれた子は、「自分が受けているのはいじめではない」と認識します。これは、未来にいじめとなるかもしれない誰かの行動を見過ごす理由となり、自分も無意識に誰かをいじめてしまう原因となります。

「自分がされて嫌なことは相手にしない」という説教はよくされるものですが、これはちょっと相対的すぎます。この方が感情に訴えているので響きやすいのはわかりますが、自分がされてもよいことでも相手はされたくないかもしれません。いじめをしてはいけないという風土を作るなら「他者が嫌がる可能性のあることはしない」という風にしないと、辻褄が合ってきません。こういうちょっとしたことも、学校で教わることと社会で通用することでズレが出てくる部分ではないかと思います。

 

いじめの問題に対する施策:文部科学省

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