「自分ができてないことを人に言うな」について

どうもシャオムです。

組織で生活していると、「人からどう見られるか」というのは多かれ少なかれ重要です。特に、リーダーと呼ばれる立場の人たちは、皆の模範となるべきであり、その立ち振る舞いは良くも悪くも評価されることになります。また、日本には「人のふり見てわがふり直せ」という言葉があるように、自分ができていないことを人にやらせたり要求したりすることに、とても厳しい風潮があります。今回は、このことについて、少し柔軟に考えてみたいと思います。

このような「自分ができていないことを人に言うな」という考え方のベースには、「すべての人が満たすべき基準」のようなものが存在します。たとえば、学校で遠足に行く日、Aさんが集合時間に来ず、みんなの出発が遅れたとします。遅れてきたAさんに、いつも学校に遅刻しているBさんが「お前のせいでみんな待ってたんだよ」と言ったとすると、周りの反応はどうでしょうか。おそらく周りの生徒も先生も、「Bさんが言えることではない」と思うでしょう。普段から遅刻しているやつに、人の遅刻を責める資格はないというのが、日本ではかなり強いルールになっているような気がします。

しかし、この場面で大事なのは、遅れてきたAさんがみんなにどういう対応をするかであり、周囲がAさんにどう接するかです。全員でAさんを責めたり、Aさんを責めるBさんを責めたりすることは、少なくとも望ましいことではありません。そう考えると、「BさんがAさんの遅刻に対して何か言う権利があるか」はあまり重要な問題ではありません。なぜ重要でないのに人はこういうことを気にするかというと、日本人の中に無意識に、みんなの和を乱す行為に対して強い嫌悪感を持っているからでしょう。嫌悪感のような感情がはたらいていなければ、今日遅刻したAさんに対して、今日遅刻していないBさんがもの言ったって良いはずです。つまり全体にとってもっとも望ましいのは、A:みんなを待たせてごめんなさい、B:私もよく遅刻するけれども、Aさんも次からは遅れないように気をつけよう、その他の人々:みんなで声を掛け合って、遅刻をなくしていこう、ということになるのではないでしょうか。つまり、「自分ができていないことを人に言うな」という言葉は、かなり負の感情に支配された考え方が基になっていて、あまり物事を前には進めないということです。「自分ができているか」よりも、「本来できるべきかどうか」という基準の方が、全体にとっては重要です。このようにフラットに見られる人が増えた分だけ、多くの人にとって生きやすい世の中になるのではないでしょうか。

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