なぜツーブロックは禁止か(校則の話)

どうもシャオムです。

以前、「ルールは何のためにあるか」という記事を書きました。このときは世の中のルールの大枠である法律を例に挙げて、ルールの意義を考えてみました。今回は、学校の中のルールである校則について考えていこうと思います。具体的には、「ツーブロック禁止」のように、世の中では認められるのに学校で制限されているようなものに対する考え方です。これを探っていきましょう。

まず、なぜ「ツーブロック禁止」のような校則が問題になるかというと、多くの生徒にとって、世の中ではやっていいのに学校でやってはいけないという制限はストレスになるからでしょう。すべての学校が、○○はOKだけど△△はダメ、というように、許容できることに折り合いをつけていると思います。しかし、どんなルールであれ、不自由なことがあればそれをかいくぐろうとする力は働きますし、学校側との衝突も起こってしまうということです。

では、学校側から見て、このような校則を設定する理由は何でしょうか。一つは、学校の見られ方に関わる問題だからです。たとえば、登下校中にお菓子を食べている生徒の学校は、道端や電車の中の人たちから、「マナーの悪い学校」とみなされてしまいます。ツーブロックのような髪型や服装に関するルールも、学校が世間の目を気にしたルールであることがわかります。もう一つの理由は、社会にとって望ましい態度を生徒に身に付けさせ、生徒が社会で生きていきやすくするためです。本来、服装や髪型について、自由が制限されることは良くないことです。しかし、子どもの教育を担う学校という場においては、いかに生徒をスムーズに社会に適応させるかがが重要なことになります。髪の色を派手に染めている生徒は、本来それが理由で不当に扱われるべきではありません。しかし、社会の現状を鑑みて、髪を派手に染めている生徒より、髪が黒い生徒の方が受け入れられやすいです。たとえば、入試の面接や、就職活動など。社会が身だしなみなどに対して一定の価値観を持っている以上、学校はそれに合わさざるをえません。

このように考えると、校則は、社会のスタンダードを反映したものであるということができます。生まれつき金髪の子どもが多い地域では、金髪は禁止になりません。日本で金髪が禁止になるのは、日本の社会が金髪に不寛容だからです。いま、世界全体の動きは、どちらかというとリベラルな方向へと向かっている気がします。校則でいうと、制限が緩くなる方へ向かっているということです。しかし、ここでもう一つ重要なことがあります。それは、学校(特に公立学校)は、社会の変化に対してもっとも鈍い存在だということです。たとえば、学校が「これからはどんな髪の色でも認められる時代だ」と言って校則を変更することができるでしょうか。学校は公立・私立に関わらず、ある意味で「公」であり、生徒や保護者、その他関係者に対してさまざまな説明責任を負っています。社会からの要請に応えて、だんだん仕組みを変化させていくことはできますが、学校が起点となって何か新しいことを始めたり、制度を変えたりするのは非常にハードルの高いことなのです。このことを理解していないと、校則の問題は、単に「自由を求める生徒」と「自由を制限する学校」という二項対立の問題に映ってしまいます。今回書いたような、校則に関する仕組みを理解することは、学校の立場からしても、保護者の立場からしても重要なのではないかと思います。

 

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