被差別部落の問題について

どうもシャオムです。

日本には昔から部落差別の問題があります。江戸時代に特定の人々がえた・ひにんと呼ばれていたころから、生まれによる差別は存在していたのではないかと思います。僕が部落の問題を知ったのは、中学校の授業でした。それは道徳か総合の時間で、被差別部落の人々のドキュメンタリーを観るという1時間の授業でした。なるほど、日本にはこういう差別があるのだなと思いました。

僕が再び部落について考えるきっかけになったのは、大学で同和教育の授業を取ったときです。同和教育とは、日本が戦後、部落差別の問題を解決するために取り組んできた教育をいいます。この歴史を知ってから、実際に誰が、どこで、どのようにして差別されてきたのかが少しイメージできるようになりました。母親や、上の世代の人たちに聞いてみると、確かに部落について一定の知識を持っていました。彼らと話す中で、僕が住んでいる街の中にも部落と呼ばれる地域があったこと、今は部落とは呼ばれないがその跡は今でも残っていることなどを知りました。たとえば、僕が京都市のある元被差別部落の地域に行くと、見た目からして他の地域より生活レベルが下がるのがわかります。

僕が中学生で部落の問題を知ってから、大学生になるまで、部落について考えていなかった理由はなんでしょうか。それは、考えてみると、世の中で部落についてほとんど語られないからだと思います。僕の親の世代が若いころは、部落差別が明らかな問題として世間に認識されていたのだと思います。しかし、僕の世代の人たちが部落について知る機会はなかなかありません。メディアではほとんど取り上げられることもありません。同世代の人たちは肌感覚として部落を知らずに生きてきていますし、もし元部落の出身者がいてもわからないし誰も気にしないのだと思います。これは部落差別があからさまに行われていた時代よりは良い、という考え方もあります。元部落出身者だからという理由で差別される人が減っているからです。

しかし、差別が見えなくなったからといって今の人々がその問題を知らなくてよいという考え方は、「寝た子を起こすな」論といって批判されます。たしかに私たちは、部落について知らなくても普通に生きていけるようになっているかもしれませんが、それは部落について知らなくてよい理由にはならないのではないでしょうか。

では、なぜ部落について知る必要があるでしょうか。部落差別はまだ根強く残っているのだから、もっと人権に関する教育を強化して解決をはかるべきだという考え方もあると思います。しかし僕が思うに、差別というのは、自分と違う人に対する嫌悪感とか自分が有利になりたいという人間の心の問題です。人間が永遠に向き合わなければならないこの問題を考えるためには、部落差別という一つの歴史を学ぶことは重要なことだと思うのです。

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