特別支援教育は「教育とは何か」をあぶり出す

どうもシャオムです。

今、とある事情で特別支援教育についての本を読まなければならず、読んでいます。特別支援教育というのは、昔は「障害者教育」とか「特殊教育」とか呼ばれていたもので、ざっくり言うと「特別に支援が必要な子どもへの教育」という風に捉えてもらえればOKかと思います。学校で仕事をする人にとっては、特別支援教育が相当重要なテーマであることは確かなのですが、これについて考えるのはなかなか難しいことです。いろいろ考えていると、「特別支援教育は、つまりは教育の本質みたいなもんかもしれないなあ」という気になってきたので、今回はそんなことを書いてみます。

日本では昭和の時代から聾学校や盲学校、養護学校と呼ばれる学校がありまして、障害のある子どもが通常の小学校や中学校に準ずる形で教育を受けていました。それが、いろいろと人権に対する認識が変わったり多様なタイプの障害が認知されるようになったりして、「障害」という概念は少しずつ変わってきました。そこで、〇〇という障害、〇〇という症状、のように障害の内容を限定するのではなく、それぞれの人に必要な支援をしていこうというのが、現代の特別支援教育の基本的な姿勢だと思います。だれしも何らかの「苦手なこと」を持っていて、それが社会で生きるうえで一定以上困難な場合は教育として支援しましょう、という考え方です。

大学の特別支援教育の科目などでは、このような特別支援教育にあたるうえでの、教師のあるべき姿勢が延々と説かれます。全員に同じ教育ではなく、個別のニーズにあった支援を。できないことの原因を子どもに求めるのではなく教師自身の姿勢を問いなさい。教師がそれぞれの子どもにあった教育を見つけるべきである・・・。もちろん、教師としてこのようにするためには子どもを受け入れることや、忍耐や、愛が必要でしょう。

こんなように考えていると、特別支援教育が謳っているのは、根本的に、親がする子育てみたいなものだなあという気がしてきました。子どもがどうあろうと、必要な支援をし、忍耐や愛をもって関わっていく。これは伝統的に、親の仕事であって、この仕事には何時間やれば終わりなどという区切りはありません。そして、特別支援に関わらず、教師の仕事がどんな子どもも育てるということであるならば、つきつめるとこの「親」のような、世話をする、面倒を見るということになってくるのではないかと思うのです。もしこれをすべて教師の仕事にするなら、働き方改革といって労働時間を減らそうとするのはとてもナンセンスだと思えてきます。子育てを1日8時間までなどと言って、夕方になったらお母さんと子どもに「はい、今日もお疲れ様!じゃあまた明日~」と言って離れさせるようなものです。議論するべき問題は、1人の子どもを育てるという仕事を、どこからどこまでを社会が引き受けて、それをどう分担するのかということです。今の日本で言えば、前まで地域や大家族がもっていた教育機能がなくなり、その分の負担が母親や学校にかかっているといった感じでしょうか。

特別支援教育のテキストを読んで、ざっくりと以上のようなことが頭に浮かびました。教師になる人のための教職課程ですから、テキストを読んで「こういう教師を目指そう」と思うのが筋ですが、そんなことばっかり読んでいても面白くないので、想像したことを書いてみました。特別支援教育は、一見、一部の子どものためのものですが、良く考えてみると、根本的には「子どもを育てる」ためのあらゆる行為と一致するのではないでしょうか。僕にとっては、この「育てる能力」は、仕事というよりも人として身に付けたい資質かなあと思います。

 

 

 

 

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